葡と銃

「帝国の起源」で調査していてひっかかっていたのは火縄銃の伝来で、もしイエズス会葡萄牙帝国の前衛部隊が東アジア地域の掌握を目論んでいたとしたら、そんなみすみす侵略先の軍事力を強めるようなことはするはずないから、おかしいと思っていたら、いろいろ説があるようだ。

宇田川武久氏の説では、倭寇による伝来などを提唱しているらしく、これはたしかに説得力がある。

しかし1606年に臨済宗の僧侶南浦文之が著述した『鉄砲記』では種子島への伝来の様子が記録されているという。
乗っていたのは、五峰という名前の中国人、葡萄牙人の牟良叔舎(フランシスコ)と喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)で、彼らが火縄銃を伝えた。
種子島島主はニ丁購入し、それを分解解析して複製をつくるにいたる。

…二丁。たったニ丁を売るためだけに訪れたのだろうか。
いや、漂着とあるから、遭難して種子島人に救助拉致され、身元調査を行ったところ、密貿易者だったから、ニ丁の銃の献呈をもって解放となったのだろうか。

…当時の火縄銃はまだ技術的にはこけおどし的なものであったようで、武器としての精度は弓の方が上位にあった。であれば、こういう取引も成り立つ。

なおウィキペディアには宇田川説への反駁として、日本で改良された火縄銃が阿蘭陀商人によって買い付けられ、東南アジアに輸出されていったとする説がニッケル、ブレーヤ説として書かれてあるが、この学説がどこで読めるのかは不明。

英語版ウィキペディアArquebus(アルクエブス=火縄銃)の記述では、火縄銃は元は14世紀中国明軍で使用されていたとあり、欧州ではマーチャーシュ1世時代のハンガリーが最初に使用したとある。

銃の銃の誕生には諸説あるが、14世紀末に原型が開発されたといわれる。
もっとも、前史という意味では、元寇の際の元軍の「てつほう」「震天雷」とか、宋時代の火槍がある。
火槍は、北方民族侵攻の際に防御用として使用され、1260年には宋軍が常備する。

年表をコピペ編集@備忘。

15世紀前半  フス戦争において、ヤン・ジシュカに指揮されたボヘミアのフス派軍が銃を組織的に運用し、西欧の騎士を主体とした軍隊を破る。
1473年   銃を主兵器とするオスマン帝国のイェニチェリが、白羊朝の遊牧騎馬軍団を破る。
1514年   イェニチェリ銃装備軍が、サファヴィー朝のクズルバシュ騎馬軍団を破る。
1515年 葡萄牙、インドのゴアに銃工場を作る*1
1540年 現在の拳銃の原型が開発される。
1543年 日本へ鉄砲伝来。種子島に火縄銃が伝えられる。その後半世紀程で日本は当時世界最大の銃保有国となる。
1650年代  火縄式(マッチロック式)から火打ち式(フリントロック式)に移り変わる。



画像は10世紀に制作された敦煌壁画で、火槍が見える。

*1:http://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/denrai/index.htm

在日米軍普天間基地問題について

いろいろ読んだが、この政治学チャルマーズ・ジョンソンの提言が最も、説得力がある。
つまり、そもそも在日米軍基地は十分足りていて、移設もくそもなく、「移設問題」は存在しない。
なんでも、米軍内部の利権争いも背景にあるとか。

http://diamond.jp/articles/-/8060

鳩山首相も、もう、ボロボロになるよりか、
こういう提言に耳を貸せばよいのに。

他でもつぶやいたが、まずは、

1.「戦後のつけを沖縄に押し付ける」ことが最大の問題なのだから、沖縄からの米軍撤退が第一目標。
2.ついで、ではどこに移設するか、ということであったが、これについても佐世保とか大村とか大阪とかの話しもあったが、上記チャルマーズ・ジョンソン氏の提言にもとづけば、移設の必要なし。
3.よって、普天間基地の閉鎖。これですべてが解決する。ついで、沖縄の他の基地も随時閉鎖。

これで終わる。

「脅威論」で政党つくるところはあっても、こういう提言で政党つくろうとする勢力が皆無なのは、
それこそ「日本人に精神力がない」からである。

 「たちあがろうとして、たちあがれない日本」…これを土方巽コンプレックスという。
 




いろいろ著書があった。

アメリカ帝国への報復

アメリカ帝国への報復

アメリカ帝国の悲劇

アメリカ帝国の悲劇

平田篤胤と阿蘭陀的アンチノミー

阿蘭陀といえば…
これもまあなかなか調べるのが億劫になってきたのでここに記しておくと、というか、結論=仮説を先にいうと、
平田篤胤の教理がどうにもスピノザの汎神論の影響を受けているのではないかと思う。

篤胤は宣長原理主義者のカルトというイメージが強いが(神学者だったからそれは当然なのだが)、大変な百科全書派でもあり、よく蘭学を勉強していたといわれる。
そこで、キリシタン政策というファクターはもちろんあるものの、当時の阿蘭陀からの書籍がどれだけ日本に入り、海賊版なども含めて、どのような情報が事実上流通していたのかを探ろうとした。すると、阿蘭陀風説書なりなんなりいろいろあたらないといけない羽目になり、また膨大な迷路にはまるなあと思い、中断していた。

それで先日丸の内オアゾに新しく出来てた丸善を散策しながら思い当たったのが、それは篤胤の蔵書を調べればいいのだと気づいた。

金地院崇伝なども敵教であるキリスト教神学を分析していたといわれるし、著述もしている。織豊時代から江戸初期にいたるその手の作業がなんらかの形で篤胤にまで伝わったとも考えられるが、やはりそれよりも阿蘭陀のからの伝来書籍のうち、哲学書思想書が入っていたはずだから、それが何なのかを見出したい。

幕府側は阿蘭陀の思想書について、「これは切支丹の書か」と問うた。
阿蘭陀商人は「いいえ、これはむしろ切支丹を批判したものでーす」と答えた。

当時の阿蘭陀が本当にすごいのは、貿易利権のためにはキリスト教さえも捨てるその「近代性」である。
まあ当時の欧州宗教戦争は、ざっと読んだ限りでも、軍事技術の程度の差こそあれ、その戦争体験は、第一次第二次世界大戦に匹敵するものではなかったかというくらい、陰惨である。
あのような内戦を体験すれば、植民地主義でのホロコーストもルーティンのようにこなせるというものだ。
偽装棄教なんぞ屁でもないわ!という感じだったろうか。
…というか、今時の欧州の若者では半数以上がキリスト教なんてどーでもよか、といっているとベルギー人がいっていた。
日本の若年層が神社とか寺とかに観光で行く感覚に近いかもしれない。
たしかに、19世紀から20世紀初期にかけての欧州文学、ユイスマンスであれバルベー・ドールヴィイ(Barbey d'Aurevilly→なんと日本語版ウィキペディアに項目なし)であれベルナノスであれボードーレールでさえも、どうしても切支丹臭が強すぎてもはや読めないのだが、20世紀後半期以降ともなれば、小説であれ映画であれさすがに「神の死」が前提となっているように思う。アングロサクソンは例外として。
…そもそも、ソレルスカトリック回帰したという話しを90年代に聞いた時点で、「本当に神は死んだのですね」と思ったものだった。ま、あれは半分ギャグ/パフォーマンス、半分本気ではあるだろうけど。

そういえばいま書いてて気づいたけど、ミシェル・ウェルベックってソレルスから思想とかそういう文化史的なものを除いて、ポルノとグチに純化したヴァージョンだったんだ。「ソレルスの亜流」か。ま、『素粒子』も『プラットフォーム』も漫画的に面白いが。

阿蘭陀人の根性の話しだった。
身捨つるほどのものはなにか。
それは自由!じゃなかった、利益!
でもそれを表に出すのは下品だから質素に。
この阿蘭陀商人のニ律背反=アンチノミーは後にカントによって精緻に理論化される…

ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をむかし読んだとき、カルヴァニズムについてなんとなくフランスを想定していたのだったが、あれって阿蘭陀人のことだったのだ。

…そうして、篤胤翁の精緻な教理にも阿蘭陀=マラーノ=スピノザ神学が入り込んでいるということからすれば、篤胤神学における産土神(うぶすな)とは、生産=資本主義の象徴ともいえる。

フィリョース:料理の考古学(葡蘭と日本)

ポルトガル料理の本を買い、簡単そうなフィリョース・デ・ラランジャを作った。

小麦粉にオレンジ(ジュース)、オリーブオイル、ぬるま湯、ブランデー(なかったのでラム酒)を混ぜてこねて油で揚げる。

油で揚げ始めてわかったのだが、これ、煎餅ないしあられである。

揚がったら、粉砂糖とシナモンを振りかける。

はじめて作った試作ということもあるだろうが、大しておいしくはない。
素朴な味である。

それよりも、天ぷらがポルトガル由来で、temperarまたはtemporasとかが語源とかいわれるのを考えると、
というか、私は長崎県出身なので、イエズス会士がカステラとかカスドースとかを伝えたことなどが感覚的に近い話題なので余計そう思うのだが、
煎餅もまたフィリョースのヴァージョンとしか思えない。

まあ、こういう粉ものを油で揚げるのは中国でもあるし、ユーラシア料理でもあるし、正倉院文書でも油で練ったいりもちの記述などがあるらしいから、
そう簡単にもいえないだろうし、料理史または料理の考古学を探求していかないとわかりはしないだろうけど。

とはいえ、フィリョースはいまでいうがんもどきを元はひろうすと呼んでいたことからも(一説では1697年の料理書に掲載)、やはりフィリョース的な調理法をなるほどと思った当時の日本人の間でひろまっていって、油揚げなり厚揚げ豆腐なり、そして煎餅などへとヴァージョンが作られていったのは十分ありえる。

というか、煎餅なり天ぷらなり江戸時代以降の記録がほとんどのようで、それ以前の記録が出てこないことには、この伝来説を覆すことはできなかろう。

長崎にいると、いまだにポルトガルとオランダの影はある。知人にもオランダに留学したりオランダ人と結婚したりというのも複数いる。

ただ→ウィキペディア→百科全書派

ただの力。レヴューにもあるが、ただについての本にお金を出す矛盾はあるとはいえ、読んでみたい。

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

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ほか『ウィキペディア革命』を借りて読んだ。

ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?

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  • 作者: ピエールアスリーヌ,フロランスオクリ,ベアトリスロマン=アマ,デルフィーヌスーラ,ピエールグルデン,Pierre Assouline,B´eatrice Roman‐Amat,Delphine Soulas,Florence O’Kelly,Pierre Gourdain,佐々木勉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2008/07/25
  • メディア: 単行本
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いろいろおもしろし。
フランスと基本的な事情はほぼ同じとはいえ、政治的な争点は各国で当然ちがう。

ウィキペディアは数年前よりはものすごく質量がグレードアップしているが、ここ二年くらいは収穫逓減の法則のようで、落ち着いている。

とはいっても、10年後、20年後にはどうなっているだろうか。
とはいっても、ウィキペディアの進化よりも、前掲書にあるごとく、また学校関係者を悩ませているごとく、ウィキペディアが知識産業にもたらす影響の方が重大だろう。
とはいっても、紙資源がなくならない限り、本が消えることはありえないと私は思う。

ウィキペディア批判論もまっとうではあるが、情報獲得手段がウィキペディアであれ本であれ、うのみにするひとつまり無批判に受容するというのは、メディアの形式の問題というよりか、教育格差とか認識能力とか、そういうより普遍的な、プラトン以来の「教育学」の問題である。

詩人哲学者のミシェル・セールは2007年にラジオでウィキペディアについて、荒らし行為があろうとそれを集団的にコントロールしているのは奇跡で、正直さがバンダリズムに打ち勝つ現象としては現代では稀であると絶賛している*1。前掲書著者達は、こうしたセールの発言を「独善的熱狂」とけなしているが、そういう論難にあるのは結局、知識産業の利害からしか物いってないように思う。セールに軍配上がる。

それにしても、前掲書には「百科事典を各家庭は持っていたが…」とあるが、そしてむかしは日本でも百科事典は各家庭にあったのかもしれないが、いま同世代で持ってる人いるだろうか?持っているひとに会ったことがない。というか、いま現在のアップグレードされた百科事典は日本で、図書館用でなく、家庭用のヴァージョンは売ってあるあるのだろうか?ほとんどは言語関係の辞典および興味のある各専門科学の辞典を複数持っているのが通常なのではないか。

それにしても、イメージされる意味は違うとはいえ、「百科全書派」という語の響きにはいまだしびれる。

*1:前掲書92-5頁

チチュルブ・カタストロフ

1億5千万年以上続いた恐竜時代が6550万年前、終わった。その原因がやっぱり小惑星の衝突だったとのこと。

メキシコのチチュルブ・クレーター(推定直径180キロ以上)を起点に、地層に含まれる金属などの分布が、起点より遠くなるほど薄くなることと、生物絶滅時期とが一致したという。


小惑星は直径15キロほどで、毎秒20キロで当時は海だったユカタン半島にドーン。

衝突時のエネルギーは広島型原爆の10億倍
衝撃波と熱線が走り、マグニチュード11以上の地震と、高さ300メートルの津波
硫酸塩やすすが太陽光を遮り、酸性雨や寒冷化。
生物の約6割が絶滅

http://www.asahi.com/science/update/0305/TKY201003040492.html


この話は、以前、テレビでCGで見てたが、あくまで「仮説・一説」だった。
ああ、難度。こりゃ、米中戦争どころじゃないな。