チベットはチベットである:パンダ政治

 中国政府への批判が世界規模で繰り広げられているし、私も、中国には強く批判したいのであるが、さすがにトンデモ批判だとちょっと、それはさすがに中国政府ではないが、不公正な感がある。状況的にチベット側の言い分を批判するのはどうかと思うも、批判の自由は原則ということで。

たとえば、さる在日本チベット人学者の意見ですが…

五輪のマスコットに使われているのは、チベットの動物であるパンダとチベットカモシカだ。チベットにおける植民地支配を正当化するために、オリンピックを政治の道具にしている。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080321/chn0803212230013-n2.htm

チベットカモシカはともかくとしても、パンダはチベットの動物だったかな…。
うーん、まあパンダが中国の動物だともいいたくないけど、パンダの奪い合いするとなると、これもパンダ外交ならずパンダ政治になってしまう。
 マスコット動物に関して「政治の道具」というのは、いわんとすることは分かるのだが、まあここはさすがに重要な論点ではないと私は思うのだが…。

 中国はあれだけ広いのに、北京の時間で国を統一している。チベットと中国は、2時間半から3時間の時差がある。しかし、北京の時間がチベットに適用されているので、チベットではまだ明るいのに、夕食を食べなくてはいけない。朝は真っ暗なのに、朝食を食べなくてはいけない。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080321/chn0803212230013-n4.htm

よくわからないのは、朝食や夕食の時間まで、中国政府は指示しているのか?
さすがに、そうではないとは思うのだが…。
 つまり、「朝7時にご飯」「夜6時にご飯」という時間先行で生活時間を配分する仕方を選ぶからそうなるのであり、太陽のリズムを基準にすれば、つまり、時間など無視すれば、すむような気が…。
 ただまあ、チベットが時間を決める権利を持たされないということが問題なのであり、時間もまた文化の問題であるのはたしかなのだが、まあ、よくわからない。
 

トボットとオイラート

 以下は別にツッコミたいわけでなくそうなのかということで。

中国とチベットはお互いに、仲良く過ごした時代もある。最も仲が良かったのは元の時代である。それから明、清の時代と続くが、この時代はたとえば、ナポレオンが皇帝になっても、ローマ法王の認知と後押しがなければ国民に対して、正当性をもてないように、中国の歴代皇帝とダライ・ラマもそんな関係に似ていた。檀家(だんか)とお寺の住職(チベット)の関係だった。
檀家が偉いか、住職が偉いかは時代によって違うが、チベット側からすれば、自分たちの方が聖職で偉いと思っていた。こうした関係は1900年代まで続いた。

吐蕃王朝(トボットという。「世界史年表・地図」吉川弘文館より)はたしかに唐とかなり争っていた。ちょろっと調べた限りでは、唐とは互角に戦っていたようだ。
 前掲世界史年表には900年ごろ以降近世までの中央チベットの情勢は明らかではないとある。
 いかに記すように、この学者のいうのは、グーシ・ハーン王朝時代のことだろう。

グーシ・ハーン王朝時代

 グーシ・ハーン王朝時代(1642-1724)は、ダライ・ラマを信仰する西モンゴル・オイラト族のひとつホショード族のグーシ・ハーンが建てた王朝である。
 
 このへんになってくると、オイラートという中央アジアの雄の話になってきて、かなり膨大で、なかなかいまはついていけないが。とりあえずネット勉強する。ウィキペディア利用。

17世紀のオイラトは、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部のジュンガリアにかけての草原地帯に割拠し、ホショート部族が有力となっていた。
ホショート部の首長グシ・ハン(トゥルバイフ)は、帰依していたダライ・ラマゲルク派チベットにおける危機を救うために出兵、1637年、チベット東北部アムド(現青海省)を制圧する。
その後ラサでダライ・ラマ5世より「シャジンバリクチ・ノミン・ハン、テンジン・チューキ・ギャルポ」の称号を授かった。
オイラト各部の首長たちはチンギス・ハーンの子孫ではなかったためハーンになることができず、従来は全オイラトを統べる実力者であってもタイシ(中国語の太師)などの称号を名乗っていたが、グシ・ハン以後、時代ごとに、オイラトの有力指導者の一人にダライ・ラマがハーン号と印章を授けるという手続きを経て、ハーンを名乗ることができる慣例が生じた。

1642年、チベットを制圧し、グシ・ハン王朝樹立。
グシ・ハン率いるオイラト軍はアムドを主としてチベット各地に配置されたが、うちアムドに居住する者たちがのち青海モンゴル族と呼ばれる。
また、一部のオイラト部民はラサ北方のダム地方に移り住み、グシ・ハン王家に仕える直属部隊となったが、これらの人々の後裔がチベットオイラト人として現在も続いている。


つまりまあ、日本でも征夷大将軍などなんだの時機に応じて天皇に軍人が称号を求めたようなものだし、古代日本列島の諸国が同様大陸赴いたことと同じことなんだなと。タイシ、か。


グシ・ハン=トゥルバイフの時代のあとに強大なのはガルダン。

ガルダンのジュンガル帝国

 元ラマ教の僧侶だったガルダンは、ダライ・ラマの後押しを受け、還俗し、オイラト族の一部族ジュンガルの首長となり、のち全オイラトを支配する。
 ガルダンはチベット仏教の守護者として、のち、タリム盆地のヤルカンド・ハン国、タシケント、サイラームを奪取。
東方モンゴルのハルハ部との抗争によって、ハルハ部が清(康熙帝)に救援を求めたため、清とガルダンとはモンゴル高原の支配権を巡って、全面戦争となる。
ガルダンは逃走中に死亡。
ハルハは、清に服属し、オイラトは清に朝貢することになる。

しかし、ジュンガル部族はその後も抵抗をつづける。
清は、1723年チベットに、1754年にはジュンガリアに出兵、グシ・ハン王朝とジュンガル帝国をともに滅ぼす。
その後、さらに抵抗を続けるジュンガル部族に、清の乾隆帝は、殲滅政策をとる。清軍が持ち込んだ天然痘により、ジュンガルは絶滅したといわれる。

ジュンガルが支配していた東トルキスタンは、新疆と呼ばれる。

清以後のオイラート

のちに清が崩壊しモンゴル国がボグド・ハーンのもとに独立を宣言すると、ホブド地区のオイラト諸部はモンゴル政府に従い、モンゴル国編入された。モンゴル国アルタイ山脈方面のオイラトをも併合しようと軍を派遣したが中国によって阻まれ、この地方は新疆省を経て新疆ウイグル自治区編入された。
中央チベットオイラト人は清朝が滅亡するとチベット政府の統治に接収され、清朝軍の残党をラサから駆逐するのに功績のあったセラ寺の寺領となった。彼らはチベット社会への同化が進み、1950年の段階で、人口は20000人弱、オイラト語はいくつかの単語を操れる程だった。

他、トルグート(現在カルムイク)など。

オイラト人とハルハモンゴル人

モンゴル国モンゴル人民共和国となると、オイラト人たちは西モンゴル人と位置づけられ、多数部族であるハルハに対する少数部族として扱われたが、文化的にはハルハ・モンゴル人への同化が急速に進んだ。

・新疆のオイラト

新疆のオイラト人は、圧倒的に少数派であり、漢民族ウイグル人、カザフ人などとの混交が進んでいる。その後、内モンゴルのモンゴル人との民族意識の一体化が進み、西モンゴル人かオイラトモンゴルと呼ばれる。

ざっとペースト編集したが、まあ、なんという大変な歴史的背景だろうか。
こうしたオイラートの歴史を考えると、たんに「少数民族問題」などとはいえないのはもちろん、ユーラシアではいまもこうした歴史的文脈のなかにあるわけで…。
 ちょっと、コメントしようがない。知らないことが多すぎる。

が、先のチベット人学者のいう「元」はもはや違いますね。翻訳の問題かもしれないが。

しかし、まあ、こうしてみると、オイラート人チベット人とは共存できたのだろうが、漢民族とはまったくいい出会いをしていない。
 強いていえば、吐蕃王朝の時に唐と軍事的に対等にたてた時代があったというくらいか。

中国も大変な国であるが、もしかすると、清の時の対オイラート政策の記憶の痕跡があったり、あるいはオイラート人の亡霊が現前したりしているのかもしれない。
 
 たしかにこれだけの歴史を踏まえると、簡単に独立などとはいえない、なんというか、ユーラシア群雄割拠みたいなことになってくる。
 が、それでもやはり現時点では、対話しかないのもたしか。

強硬姿勢くずしそうにもないが。