kamikitazawa 『おお!『奇妙な廃墟』!

しかし、福田さんの言ってることかkairiさんの意見かはともかく、ゴビノーは<人種�差別�主義者>ではなくとも<人種主義者>ではあるのではないかいな?
人種というものを文明や歴史を衝き動かす一種の原理と見たわけですから。
(現在ではそういう�人種論�は、「学術の主流における実り豊かな議論」としては成立し得なくなってるっていうこともありますが)』(2006/03/03 17:56)
NakanishiB 『 どうも嫌がらせにきました(^^♪、http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406080003/ マラパルテを探していたらみつけました。でも、kamikitazawaさんの論点を敷衍すると実はつながるのでは?。』(2006/03/04 05:05)
kairiw 『>福田さんの言ってることかkairiさんの意見かはともかく

瑣末なことですが、上の記事はメモですよ。だからぼくの「意見」ではないですw だいたい、ゴビノーの本自体、翻訳がでてるかどうかすらも知らないので。
 
>ゴビノーは<人種�差別�主義者>ではなくとも<人種主義者>ではあるのではないかいな?

福田本によるとゴビノーがなぜ「人種」を持ち出したかということについては、やはり反革命というモチーフがあったようです。「近代主義」批判というものですね。でそのゴビノーが敵視した「近代主義」がなんであったかというと、差異を消す画一主義であったと。それは政治的には、中央集権モデルで、思想的には個別性やローカリティといったものを打ち消す「普遍主義」であった。そうした「近代主義」を批判するために、「近代ヨーロッパ文明」を相対化するために、「人種」というカテゴリーに寄った。
 ゴビノーのこうした動機の問題は、日本においても大川周明などのアジア主義にも同型の問題がみれますね。かならずしもすべてが間違っていたとはいえない動機とおよびその意図せざる「最悪」の結果。どこからねじれていったのか、はじめより間違っていたとすれば、どこが間違っていたのか。
 ゴビノーに関していえば、その著書のタイトルが間違っていたなと私は思いますw そりゃ誤解まねくだろうし、人種差別政策に利用されてもしかたない。でもだからといってナチによるホロコーストの責任をニーチェやゴビノーやワーグナーハイデガーに還元するような誤りを正当化することにはなりません。ナチホロコーストの責任は、ナチとそれを可能にした社会的条件にまずは帰属します。でもむろん、ナチ・ホロコーストの思想(?)というか思考形式を形成したのに「寄与」したのは確かですが(このことを論理的条件とでもいえばいいのでしょうか)。
 
 で、問題はレイシズムなのですが、「人種主義」がいかに「人種差別主義」へと変換されるのか。

 「白人種」を優越種とみなすことや、その変種=模倣である日本での自国民優越視にあるのは、ひとつはナルシシズムですね。
 あとやはり社会ダーウィニズムのような「優生学」。フォークセオリーとしての擬似生物学主義。日本での「優生保護法」なども、言説の論理としてはもちろんナチスホロコーストと同じです。「生命」に「価値」のヒエラルキー(優/劣、強/弱etc.)を導入するということの問題。
 …いつ「人種」間に価値のヒエラルキーが導入されるのか。
 …まあレイシズム問題を真剣に考えていくとなると、ホント大変ですな。
また読書プログラムになるとw、レヴィ=ストロースの「人種と歴史」、サイードオリエンタリズム」、とりわけルナン、またバリバールの「人種・国民・階級」(しかし数年前に売却してしまった…)などを読まねばならないw

 あ、あと

>�人種論�は、「学術の主流における実り豊かな議論」としては成立し得なくなってる

ということでいえば、アカデミズムにおいてはそうですが、一般のいわば民間に流布浸透している(フォーク・セオリーとしての)「人種論」は無視できないわけでして。また、アメリカ、ヨーロッパにも、やはりいまなおレイシズムは根強くある。

>NakanishiB

福田和也におけるハイデガー主義の問題ということでよろしいでしょうかw?
ハイデガー問題は、面白いのですが、メンドクサイw うーん。私もかつてハイデゲリアンだった時期もちょろっとはあるのですが、やっぱあの神秘主義的なドイチュ言語遊びには付き合ってられませんwまあでもちゃんとハイデガー問題も押さえないとなー。』(2006/03/04 15:38)
kairiw 『補足です。「近代主義」=「近代ヨーロッパ文明」を相対化するために、「人種」というカテゴリーに寄ったという点に関して。「人種」カテゴリーを軸に考察をしていったもっと大きなコンテクストとしては、「オリエント」の発見があります。ゴビノーは「人種論」の前に、オリエンタリストであった。「中央アジアにおける宗教と哲学」とかいった本を著しているようです。
 だから、比較文明論ないし人類学的な視点がまずあったということです。そのなかで各地域に「人種」がある。白人種、黒人種、黄色人種…。「近代主義=近代ヨーロッパ」は、そうした人種の差異をすべて「白人種」を一等人種にした中央集権的な発想のもとに、画一化している。そして、この画一主義の末路はといえば、文明の死である、という論旨のようです。
こうした考えは、今日では文化多元主義と呼ばれるものに類するでしょう。
あとですね、ゴビノーは宮廷社会=サロン社会を憎悪していたようで。で、ラシーヌなどのフランス古典主義やデカルトなども「宮廷貴族の手先」と見なしていたそうですw
 ついでに。人種論者として興味深いだけでなく、他方、小説家としても面白いそうです。三島由紀夫もどこかでゴビノーが好きだーとかいってましたが、あれは小説家としてのゴビノーについてだったんだなと。だれかフランス語できるひとw、訳せばいいのに。』(2006/03/04 16:16)
kairiw 『あ、あと私が「人種」に興味があるのは、形質人類学的な視点からです。「人種差別主義」に対しては、もちろん戦っていくべきだとは思いますが、かといって、「人種」という概念が名指す一連の生物学的な特徴が存在しないとはならない。それを「人種」とするかどうかという問題はありますが。
 でこれは、先ほどアカデミズムにおいては「人種論」は成立しないとのkamikitazawaさんの見解に対する賛同の修正となりますが、人種概念は、生物学や形質人類学においてはやはりいまなお重要な参照概念であるようです。だから、「人種」概念そのものを問題とすることと、「人種論」と、フォークセオリーと科学との差異、また人種差別主義の問題、価値序列の問題、自然科学の政治的な利用の問題などなど、いろいろ区分けして、考えていく必要があります。
 まあいまのところ、もっぱら興味があるのは、やはりレイシズムの起源についてです。』(2006/03/04 16:47)
kamikitazawa 『>上の記事はメモですよ。
>だからぼくの「意見」ではないです
ああーそうでした。
こりゃ失敬。

>ゴビノー
反革命
>「近代主義」批判
ここでkairiさんがおっしゃってることに一つ付け加えるとすれば、近代という人文的な理念を撃つために人種という科学的な実体を持ち出す、というアプローチですね。
そういう遣り方ってのは今に至る保守&反動論客各位の定番論理展開になってますね。

大川周明
ゴビノーに比べるとそうとう可愛いですけどね。
貧乏国の反撃型理論家ですから。

>ゴビノーに関していえば、
>その著書のタイトルが間違っていたなと私は思いますw
だけどおそらく解かったうえでワザとやってるんですよ。
むしろ誤解されたいというか、挑発してるというか、生まれつき性格が悪いというか(笑)。

>ナチによるホロコーストの責任を
ニーチェやゴビノーやワーグナーハイデガーに還元するような誤りを>正当化することにはなりません。
>ナチホロコーストの責任は、
>ナチとそれを可能にした社会的条件にまずは帰属します。
そりゃそうだけどね、でもこういう理屈ってけっこう良く聞くけど、「言論人という存在は実際の事象に対し無答責である」と言われてるみたいで私は好きじゃありません。
まーkairiさんはコレ↑に繋げて発言を補ってますし、まーいいんですけどね。

>>�人種論�は、「学術の主流における実り豊かな議論」としては
>>成立し得なくなってる
>ということでいえば、
>アカデミズムにおいてはそうですが、
>一般のいわば民間に流布浸透している(フォーク・セオリーとしての)>「人種論」は無視できないわけでして。
その通りだと思います。
でもですね、「尊敬され得る存在としては社会的に存立し得なくなっている」というのは昔に比べりゃかなりの進歩だと思うし(「進歩」とか使っちゃうとまたハゲシくツッコまれそうだなぁ。笑)、そういうものに対しては、理論構築とかではなくそれこそ現実の社会的アプローチを取ればいいんじゃないかと私は思うんですけどね。
いや、実際アッチに行って、明らかに自分よりアタマ悪そうな白奴(←ご存知でしょうけど昔こういう言葉があったのです)のみなさんに差別とかされることの凄まじい不愉快さというのは、そりゃ私にも理解できますが。

>ゴビノーは宮廷社会=サロン社会を憎悪していたようで。
え、そうなの?
でもゴビノーってイヤミな貴族主義者じゃん、なのに宮廷やサロンが嫌い? こりゃ思ったほど出世出来なかったことから来る私怨だな、入りたかったのに入れてくれなかったんで逆ギレしてるんだよ、ルサンティマンてヤツですわ。私は自分がそういう人間なので(笑)そういうタチのヒトはそう嫌いじゃないが、「アンタいい加減にしときなさいよ!」という感興が湧き上がるのも抑えることが出来ないね。
しかしそう考えるとゴビノーって、理論内容はともかく人間類型としてまさにプロトナチだなぁ。私としてはそういうところに非常な興味を感じますよ。

三島由紀夫もどこかでゴビノーが好きだーとかいってましたが
そりゃ同じタイプの人間だからだよ(笑)。
同じ官僚上がり同士だし。

>ベーさん
先日は「あかね」でお会いしたのに「クアトロガトス」買えなくてすんません。
いやーあの時はいくらなんでも混み過ぎですよ、オレなんか床に座ってたし、「入れないならここでいい」とばかりに店の前で飲みだす人まで出る始末でしたからねー。

てな私信はひとまずおいといて(笑)、ベーさんて<かつてハイデゲリアンだった>んですか。つまりプロトナチor/and暴力革命肯定論者だったんですなっ!

あ、もちろんこの発言は冗談ですよ(ってすぐに自分から言うなよ!)。』(2006/03/04 17:51)
kamikitazawa 『あ、kairiさんの補足が増えてる。
えと、
>あ、あと私が「人種」に興味があるのは、
>形質人類学的な視点からです。
以下の、kairiさんの見解に全面的に同意を表するものであります。
それと、
>まあいまのところ、
>もっぱら興味があるのは、
>やはりレイシズムの起源についてです。
ということで言うと、レオン・ポリアコフ(ラウ−ル・ヒルベルクと並ぶホロコーストショアー研究の第一人者でもあります)の『アーリア神話』(法政大学出版局刊)なんかもオススメです。
kairiさんもちょっと言及してる<オリエント研究が白人至上思想の苗床になっちゃった問題>について、日本語で読める本の中ではおそらく最もまとまった著作ではないでしょうか。
中国キチガイとか印度キチガイとか、今から見ると「なんでまたそんな思い違い/思い入れを?!」と言いたくなる思想潮流が、なんやらいろいろあったらしいです。
ただし、壮大な概論であり非常に誠実なバリバリの学術書でもあるので、読んでてまーったく面白くないという欠点があります(笑)。
でもkairiさんと私とでは本に対して抱く思いも違うでしょうから、kairiさんにとっては面白いかもしれません。』(2006/03/04 18:13)
kairiw 『>近代という人文的な理念を撃つために人種という科学的な実体を持ち出す、というアプローチ

えーまー、ただ、「人文的な理念」としての「近代」というか、啓蒙主義に代表される近代進歩思想に対してだったのでしょうがね。
ま、イデオロギーに利用される「科学」の問題とか、あるいは一イデオロギーとしての科学主義とかここいらもまた深いw ぼくはかつて「科学的社会主義」の本をドグマとして読んでいましたしねw

大川周明
>ゴビノーに比べるとそうとう可愛いですけどね。
>貧乏国の反撃型理論家ですから。

うーん。まず、ぼくは大川周明はゴビノーと同じくらい重要だとは思っています。まあ言説の種類が違いますから、同列にすることはできませんがね。あと、ゴビノーは小説家としては一流っぽいようですが、やはり、イデオローグとしては二流だと思います。まあ100年以上の前のひとをつかまえてランキングもなんですがね。

>むしろ誤解されたいというか、挑発してるというか、生まれつき性格が悪いというか(笑)。

まあ福田本による記述から推測するに、性格は悪いようですw 
世話になったトクヴィルへの態度とか。

>「言論人という存在は実際の事象に対し無答責である」と言われてるみたいで私は好きじゃありません。

いやぼくは言論人というかイデオローグが無責任だとは考えていませんよ。ただ、ゴビノーやニーチェはたしかにナチのロジックを用意したという意味では、kamikitazawaさんのおっしゃる「プロトナチ」と一見いえそうですが、でも直接ナチに加担したハイデガーと比べると、その責任の度合いは異なるでしょう?
 それにそうした遡及論法、責任を起源に遡って論難するとなると、まずもってプラトンの構想こそナチの原型ではないでしょうか。あと、ギリシャ彫刻とかにおける美の理念とかw 
まあいずれにせよ、ナチがなんであったかはこれからも延々分析していく必要があるということをいいたかったのです。つまり、悪魔祓い的に、ナチおよびプロトナチを、歴史より消したところで、現在も相当な数いるナチ信奉者およびレイシストの発想の根源をつぶすことにはならないだろうということです。というか、いまのわたしたちの社会だって、その原理はなんらナチと変わらないわけですから。つまり劣等人間は「殺されている」わけで。

>でもですね、「尊敬され得る存在としては社会的に存立し得なくなっている」というのは昔に比べりゃかなりの進歩だと思うし(「進歩」とか使っちゃうとまたハゲシくツッコまれそうだなぁ。笑)、そういうものに対しては、理論構築とかではなくそれこそ現実の社会的アプローチを取ればいいんじゃないかと私は思うんですけどね。

ん?人種論と現実政治的に戦うべきだとおっしゃいたいのですか?

>ルサンティマン
>ゴビノーって、理論内容はともかく人間類型としてまさにプロトナチだなぁ

そうですねw 公爵か侯爵かおぼつきませんが、とにかく称号はほしかったようです。まあノーブルなものへの憧れはたしかに私にもあるし…というか、だれにも「権力の意志」は多かれ少なかれあるいは形こそ異なれあるし、「力への意思」つまり「欲望」がないとうそぶくのは、欺瞞ですから。
 でもまあヒトラーのパーソナリティの問題とかね、露骨におっしゃる問題はありますがね。

>ベーさんて<かつてハイデゲリアンだった>んですか。つまりプロトナチor/and暴力革命肯定論者だったんですなっ!

ハイデゲリアンだったのは僕ですよw bがどうだったかは知りませんが。たぶん、ハイデゲリアンであるデリダ経由でのハイデガーへの興味ではないかとw まあこんな話し、代弁してもしょーもないですがw
あ、あと暴力革命論についてですね、まえレーニンについて応答しようかと思ったのですが、とくにまとまった考えもないので放置しておきましたが、というか、膨大な問題なので。
 フランス革命はまさに暴力革命でしたよね?うーん。革命に付随する暴力行使と流された血の量と、革命以前の国家が行使している暴力とその暴力の犠牲者の血の量とのどちらが多いか?あ、違うな。これだと、量の話しになってしまう。bの方がもっとうまく革命の論理を提示できると思いますがw、まずですね、革命を断罪するとき、どのようにそれを行うかです。フランス革命ロシア革命とを混同してはいけない。たしかにもっとここは厳密にやらないといけない。しかしあまりにデカイ話しなので、厳密にやってると、問題のありかが分からなくなってします。だから話しをシンプルにしますと、私は二つの革命はともに、民衆の正義のために行われたと考えています。あ、目的は、民衆の困苦を取り除き、すこしでも多くのひとの幸福を実現することでした。この革命ということの意味、つまり革命の動機と理念と、革命の方法論の問題と、あとその後に起こった独裁制や粛清つまりは「血」の問題とを…うーん。大変だなw
 えと、まあ、暴力革命論を否定するのなら、それはフランス革命を否定することになると思うのですがということです。
 まあとりあえずそれだけw』(2006/03/04 19:37)
NakanishiB 『>kamikitazawaさん
 この間はどうも、私のブログから行けるクアトロのwebの通信でも売ってますw。あの日はなんか微妙にずれた文脈でも人が集まったみたいです(非モテってやつです)。ちなみに外で飲んでたのは、常連や古参の方々です。

>プロトナチor/and暴力革命肯定論者
 ハイデガーには人並み程度(?)に興味はあります。ご存知でしょうが、マラパルテはアンチ・ナチの(最狭義の)ファシストです、この一線はかなり重要だと思います、ですからプロトナチの方は違うということで(まあ人間類型なら別ですが)。暴力革命は風呂に入るとき服を脱ぐことが当然であるのと同様に肯定してますw。

>kairiwさん
 ゴビノーもハイデガーも近代思想の本質を共有しているということです。もう書かれちゃったけれど、ゴビノーについては、<オリエント研究が白人至上思想の苗床になっちゃった問題>につながるわけですね。あと、ハイデガーは人文知識人とテクノクラートの補完関係があるわけですね、これは今も変化して残っている。貼りけたURLは補完関係を前提にするからこそ、具体的な技術論は必要ない(ハイデガーも福ちゃんも)と私は読んだわけです。ただ、現在は無自覚に「具体的な技術論」やるよりはましだと思うけど(経済学とか情報技術論とか)。』(2006/03/05 06:12)
kamikitazawa 『いやー、非常に面白い展開になってますね!
でも私は現在ドクドク酒飲んでレロレロなので(土曜日の午後8時から朝まで飲んでました。ダメダメダメ人間です)、個々の応答は後ほど。すんません。

うーん、でも確かに、暴力革命を否定すると論理的に言えばフランス革命も否定しなけりゃならないんだよなぁ。
いやーこりゃ確かに一本取られたネッ!(ってそんなことすら考えずにモノを言ってたのかよ!!)
でも理屈に合うからってフランス革命まで否定すると、マンマ呉智英つーか、逆の意味でバカなラディカリズムだしなぁ(保守反動ラディカリズムとでもいうんですか?)

まーあともう一つハナ・アーレント路線てのがあって、フランス革命ダメ(プラトンだから?)、アメリカ革命アリ(ソクラテスだから?)ていう遣り方で近代を救出するってテもあるんですが、オレ古代ギリシャのテツガクなんてちーとも知らねぇもん(笑)、だからコッチもダメなんだよなぁ。

では反論は寝ながら考えます(笑)。』(2006/03/05 06:50)
kamikitazawa 『遅くなりました。
あんまり反論にはなってません。
何時ものごとき茶々入れというか(笑)。

さて、

>ぼくはかつて「科学的社会主義」の本を
>ドグマとして読んでいましたしねw
あはは。

>ぼくは大川周明はゴビノーと同じくらい重要だとは思っています。
そりゃ解かるけどね。
いや私は、佐野眞一さんの近刊で『阿片王』という本の中の、
「かつて満州大川周明が肝胆合い照らした日本外務省の外交官と、互いのキンタマの皮を引き延ばしてそこに熱燗を注ぎあい、飲みあった」
というエピソードが頭にこびりついて離れなくて(笑)、なんつかそのテの、極度に頭が悪く、しかし大抵の日本人の男が「ああーアレねー」とココロの深いトコロで避け難い既視感&納得感を覚える非常にアリガチかつアンマリなマッチョイズムというのが、自分の中の大川周明像とバチーッと重なりあってなんか得心がいっちゃって、それ以来この人に関しては真面目に考える気が無くなった、てのがあるんですね。いやいまだに興味はあるんですが。
それにね、キンタマ酒と東条のハゲ頭ペチッは見ないことにしても(笑)、オレにでも反論できるような発言がけっこうあるんだよなこの人は(特に日本敗戦後)。この世の春を謳歌する徳球に対して何も言ってないに等しいまったく無内容なやっかみを吐露してみせたりね。そういうところも「(ごくフツーの)ニホンの男」っぽいんだよなぁ。

>ゴビノーやニーチェ
>たしかにナチのロジックを用意したという意味では、(略)
>「プロトナチ」と一見いえそうですが、
>でも直接ナチに加担したハイデガーと比べると、
>その責任の度合いは異なるでしょう?
そう来たか(笑)。
いや、まったくおっしゃる通り。全面的に同意します。

>それにそうした遡及論法、
>責任を起源に遡って論難するとなると、
>まずもってプラトンの構想こそナチの原型ではないでしょうか。
>あと、
ギリシャ彫刻とかにおける美の理念とかw
ギャハハ!
これもおっしゃる通り。同意です。
でもまぁこういうコトも遊びでやるぶんには面白いと思いますけどね(つか、現にやってる人いるし。で、それがまたけっこうほんとに面白かったりするし)。
私としては特に最後の
ギリシャ彫刻とかにおける美の理念とか 
にはこだわりたいね。
家畜人ヤプー』を世界文学史上無二の大傑作にしてこの世の真の真実(ヘンな日本語だが)を語りきった世紀の思想書と信じる身としては(笑)。

>ん?
>人種論と現実政治的に戦うべきだとおっしゃいたいのですか?
うーん、ええとね、ここは一つ例え話で説明しますけど、私たちが若かった頃は「中国人やコリアンは日本人より先天的に劣等である!」なんてマジメな席で本気で言ったら確実にバカ扱いされて排斥されてたと思うんですよ。ところが今やこの有り様でしょ?
だからね、社会の空気にせよ法的な禁圧にせよ(ってこの二つを一緒にしちゃいけないんでしょうが)、社会的に「そういうことを言っては/してはいけない」ってことになってるっていうのは、時と場合によったらいつでもどこでも悪いこととは言い切れまい、と私は思う、ということですね。
いやぁ、こういうことを言うと、「そういう事態に立ち至ったのはそういう事柄についていたずらにタブー化しドグマ化し、真摯な知的武装を怠ったからではないか!」とか、たちまち反論されそうだけども(口調はこんなにバカっぽくないでしょうけどね。笑)、人種論とか民族論とか、ナツィズムとかファシズムとかの、いわば(真剣に取り扱えば取り扱うほど)「触れれば血が出る」イッシューについて、そもそも「知的武装」みたいなもんで撃退出来得るものなんでしょうかね? 私はそういう点については非常に懐疑的であり、ですから社会的タブーの存在に(時と場合によっては)賛成するものでありマス。
あ、だからといってモチロン「そんな研究全廃!」なんてことを言う気はありませぬ。研究・思索は(様々な意味で困難であることを内心に銘記しつつ)大いにやるべし!だからといってそれが所期の目的を果たせるとは思うなかれ(だって予期していたのとは正反対の結論が出るかもしれないんだから!)、といったところでありましょうか。

>ハイデゲリアンだったのは僕ですよw
あ、こりゃ失敬。

>私は二つの革命はともに、
>民衆の正義のために行われたと考えています。
>あ、
>目的は、
>民衆の困苦を取り除き、
>すこしでも多くのひとの幸福を実現することでした。
いやぁ、kairiさん、あんた男だ!(笑)
さすが九州男児、明快であります。
私にゃここまでハッキリ言い切る勇気がありません。
あと私はロベスピエールはともかく、レーニンというハゲが人として大嫌いなんですわ。
いや嫌いというか、世界史に名を残すような人物で、歯の浮くような「ちょっとイイ話」みたいのは別にして(中沢新一死ね。笑)、この人くらいパーソナリティについて納得のいく言及がなされてない例ってのも珍しいと思うんですがいかが?
いやまー今後どんなにうなずけるレーニン像が提出されても、私がコイツを「好きになる」ことはないと思いますが。

>べーさん
>あの日はなんか微妙にずれた文脈でも人が集まったみたいです
>(非モテってやつです)。
あ、私その<ビミョーにズレ>た人間ですわ(笑)。
非モテ論目当てで行ったクチですから。はは。
で、べーさんはまだいらしてなかったですけど、私が着いてから10分以上かかってやっと居場所を確保して、さぁ!と思った途端、渋谷女史が近来の私の心の拠り所である、電波男にして真理の御霊・最聖・本田透尊師(→http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/)を批判する発言を!しかも誤読に基づいてる!おまけにペペさんまで著作を読んでもいないのに渋谷発言に全面追従する発言を!まったくこの人はどこまで調子がいいんだ!(笑)しかも会場にまで拡がる追従笑いッ!
あ、私はでもまったく反論とかしませんでした(笑)。
機先を制されて出鼻を挫かれて毒気を抜かれたというか。
私は過去の行き掛かり上アソコではあんまり暴れられませんし(という割りにゃ充分アレだったという声もありますが。笑)

>マラパルテはアンチ・ナチの(最狭義の)ファシストです、
>この一線はかなり重要だと思います
うーん、なるほど。
でも意地悪く言えば、<アンチ・ナチのファシスト>には結局、「権力を握れなかったファシスト」「権力なきファシスト」という意味しかないのではないかいな?とかも思ってしまいますです(で、その場合私の頭にまず浮かぶのはオットー・シュトラッサーですね)。

>(まあ人間類型なら別ですが)
ギャハハ!
まぁ�オトコのコ�でプロトナチの人間類型に当てはまらないヤツのほうが少ないって気もしますしね。

>暴力革命は風呂に入るとき服を脱ぐことが当然であるのと同様に
>肯定してますw。
おおっ、ベーさんまで男発言を!(笑)
ちなみに私は言うまでもなく暴力革命反対論者です。
「怯惰なブルジョワの残りカス」と呼んで下さい(笑)。

あ、「ガトス」は近いうちにネットで購入させていただきますです。

うーん、あんまりまとまらなかったなぁ。
すんません。』(2006/03/08 05:58)
kairiw 『>大川周明
>極度に頭が悪く、しかし大抵の日本人の男が「ああーアレねー」とココロの深いトコロで避け難い既視感&納得感を覚える非常にアリガチかつアンマリなマッチョイズム

そういうノスタルジーを感じる世代というのはオヤジ世代でしかないのではないですかw?で、佐野本なんかもそういうオヤジを癒すためのものなんでしょw?
 ノスタルジについては、そういう「昭和」的な?というかなんと言うかノスタルジ感情の存在は分かりますけど(分かるって、正統性を認めるって意味じゃなくて、そういうものが存在することは情報として知ってるって意味ですけどw)。でももはやどんどん過去のものになっているような。つまり江戸時代にノスタルジアを感ずるくらい、歴史を再構成したうえでのノスタルジーになってて、アプリオリに共通な時代感覚みたいなものは、消え去ったのではないかと。直接的な連続感覚みたいなものですかな。
それは経済成長による歴史・社会認識の断絶かもしれませんが。あ適当すぎますねw
言い換えます。若者wは、ま一瞬「オヤジギャル」というのがいたそうですがw、「オヤジ」であることを会社なり社会なりから求められることがあるとしても、さすがに感性において根っこから「オヤジ」になることは、よっぽど「反時代性」とかうそぶいて「自覚的」に再構成しないと成立しないかとw「サライ」読んだり(あの雑誌まだあったっけ?)することで。あと20年してどんな「オヤジ」がいるのでしょうかね。あんまり変わらず、「オヤジ」の再生産が行われているのかな。まそうかもなw
まー作る会を信奉する若者は明らかにオヤジ予備軍といいたいところですがねwでも若い保守層には、もはやそういうマチスモはないような気もする。むしろ防衛主義というか、安全主義というかそんなロジックですよね。
ぼくがいいたいのは、「大抵の日本人の男」とkamikitazawaさんが前提するようなことは、すくなくとも未来においては消滅するだろうとw そういう時代的制約というか時代的な条件付けは、時間の残酷な流れのなかでw消えていくと。
 ただこのことと、非ヘタレとしてのマッチョつか、強さとか強度とかいったことは違う話しですがね。

キンタマ酒は、オモシレエー、キタネーナーとかぼくは思いますけどw 遠山満とか杉山茂丸とかの三角木馬の話とかね。でもまあその類のエピソードは奇人伝としてアリだろうとw 熊楠とか。まあホモーソシャルというか、町山さんの「男はみんなホモ」テーゼかなw 
うーん、だからまあ、kamikitazawaさんがおっしゃるようなそういう奇人的エピソードの「教育効果?」のようなものによってマチスモを奨励するなんてことはwもはや成立してないんじゃないすかねえ。つまり往年の「マッチョたれ」という抑圧的な命法みたいなものは。同じ理由で。つまり過去のものになってると。
(以下、削除しようかと思いましたが、ツレルかなと思いw載せときます;僕のいう「昭和ノスタルジー」、あ、これ昭和時代に対するノスタルジーというか昭和時代に形成されたノスタルジーのスキームのことですが、「和風」というやつですね。ま居酒屋とかオリザとかでもいいのですが。会田誠がおもしろいのはそれを攻撃的にパロディ化してるとこですけど。ここでいうと、会田的な悪意はいいのですが、善意としての「和風」はやっぱただのプチナショなんで、ダメです。というか資本主義社会における商品開発の戦略を問題としたほうがいいのかな。いやま商品化の問題はあるとしても、会田誠はやはりマイナーですからね、村上隆がどれほどメジャーといってもやっぱりエキセントリックで、あとアートという特殊社会ではあるから。つまり一般的なレベルつまりマジョリティのレベルでは、やっぱ「和み」の美学が強いわけで、町を歩けば必ず「和み」に会いますよね。…どうでもいいようなw話しになってしまった…いや、プチナショまずいということですw)
 大川周明についてでした。ぼくが興味があるのは、アジア主義という言説・論理です。一国ナショナリズムではないアジア主義の射程は、むろん大川に還元してはならず、竹内好なり広松渉なり宮台真司なりでもいいのですが、その言説の変遷の歴史のなかでとらえないと、おっしゃるとおり、マッチョカリスマバンザイ三唱で終わってしまう。まあ宮台的ないいかたになっちゃいますが、ヘタレなウヨサヨよりはガツンとマッチョでもぼくはいいと思いますがねw 男児としてw
 言説の論理としてはたしかに大川は破綻しまくってるでしょう。でもまあそういうマトモなロジックをムカシのひとwに求めてもしょうがないかとw
 アジア主義に興味があるからといってぼくはいまだアジア主義者ではないし、それどころかむしろ伊藤博文的な西洋近代化に近いですw まあ伊藤的な西洋主義もアホとは思ってるんで、結局、悩んでるモダニストということで漱石的ウジウジウダウダメランコリーなんですが。
 宮台真司をちゃんと読もうかという気になったのは、昨年ごろからですが、かれの論理は全面的に肯定できないとしてもやはり非常に重要な問題提起・思考を推進してると思います。
 アジア主義の問題なり天皇制なりつまりは従来の右翼的な問題系をきちんと論じることはホント大変でリスキーだと思います。だから宮台真司のようなズバヌケテ賢いひとがそういう作業をやってることにぼくは敬服します。
 まぼくの場合、後続世代なので、なかなかまんまのっかることはできないということがあるので、よけいメンドイのですけど。

 ただね、嫌韓、嫌中、嫌日の三すくみは、やっぱアジア主義以外に克服の道はないと思う。これ、なぜイズムじゃないとまずいかというと、たんに外交において友好関係を保つとかいうようなことだと、結局、ヴィジョンの欠如によって、すぐ感情的な近親憎悪になるからです(それがいまの現状)。実際、経済ネットワークにはもはや相互依存しているわけですしね。流通は今後も深まるだろうし。もはや別に嫌っている連中はどうでもいいのです。それよりはやはり三つの国がどんな関係を築けばよいか、ほぼなにも持ち合わせていないことが問題ですよね。ただそれも上部構造の話しでしかないから、今後より緊密に経済・文化(商品)流通が進めば、おのずとそういう話にはなるだろうかと。しかしその前にやはりつぶしておくべきものが現在の一国ナショナリズムです。

だから、大川に戻ると、ぼくがいいたかった重要性というのは、ゴビノーも大川もともに理論的にはヘタレであるが、後者はアジア主義を模索しているがゆえ興味深いということです。あと、ゴビノーの方が重要というのもフランス中心史観っぽくてw まさかkamikiatazawaさんがおフランスであるとは思えないのですがw
あとkamikitazawaさんのようなエピソード的な理解の範疇で収めるのは、まあそれはそれで笑えていいのですが、それだとそこで終わってしまうので。

>NakanishiBさん
>テクノクラートと人文知識人の補完関係

で、ナカベーのテクノクラートと人文知識人の補完関係という指摘についてはですね、それで?って感じで、前提の話しすぎて、問題提起になっているのか不明です。というか、知識人イデオローグ批判として、ゴビノーがイデオローグだから、ダメというのは分かりますが、それもやっぱ遡及してるのだから、それだったら、「淘汰」という理論モデルを提出しちゃったダーウィンがもっとやばいのではないかと。ダーウィニズム批判もいろいろあるようですが、どうなんでしょうか。あと、ゴルトンの遺伝学とか。
 まーフーコー的な知識と権力の問題系となると、話は別ですが。あ、そういう話か。
 まあゴビノーを擁護する気はさらさらないのですがね、それに、福田本の解釈が正しいのかどうかもゴビノーの著作を実際に読んでない以上、分からないのですが。それでも、福田和也は文献学者としてはそんなにインチキではない(少なくとも「奇妙な廃墟」は)と思われるので、あの解釈はそんなにいい加減ではないだろうと。そうすればやはり、ゴビノーは誤解されちゃったねというところに落ち着きますね。
 まあナチの断罪はいいのですが、それをやるよりミュラーやレーヴィやパゾリーニのように、現在の社会が収容所社会であること、アウシュビッツだよ、アメリカもニッポンもヨーロッパも、と社会学的に論証していってほしいかなと。べーにその作業はできるはずですw まーでも断罪でとまってると、そうはならないのかな。そのイデオローグ知識人批判の前提となってる問題意識(価値判断)ということでいうと、以前もやりとりしたことですが、スターリニズムを擁護することがはたして可能かということですよ。革命は革命でいいのですが。ナチズム、スターリズムだけが全体主義ではなく、資本主義ないし自由主義全体主義だとかいうのは、気持ちは分かるのですが、なかなか論理がつかめないです。社会の編成原理においての記述ということなら上記したように了解できます。

ローティのアメリカニズムは、全面的にはもちろん賛同できないけれど、でもまあ明快ですよね。ただローティは、バカな伝統主義に対してはしごくまっとうに戦っているけれども、ネオリベラリズムに対しては、どうなんだろうと。結局、穏健なリベラルであるというスタンスはたしかに「大人」であるのだろうけれど、ヘテロドクサルなアメリ原理主義を出しても、それはまたオーソドクシーな原理主義に飲まれないかなという懸念は、件の本を途中まで読んだ現在、思いますが。
 まえもいったことですが、コミュニズムを新たに提示するのなら、やはりスターリニズム批判、一党独裁主義批判(ほかにもいろいろあるのでしょう)に対して、論破しないといけないのではないかと。そうしないと、革命もくそもないと思うのです。
 ぼくはとりあえずスターリンがメイエルホリドやトロツキーを虐殺したことは間違っていると思います。スターリニズムがなんであったのか、ナチズムと同様、詳細には知りません。ただ、ラーゲリなり粛清なりの出来事があったのは、ナチ収容所があったと同じ意味で、事実だと思います。ならば、ナチズムとスターリニズムとはその異分子殲滅という全体主義的な性格は共通している。むろん翻って、この異分子殲滅という全体主義的な性格は、資本主義社会にも共通している(社会の編成原理)。でもやはりイデオロギーはそれぞれ異なるし、あるひとつのイデオロギーを絶対的真理として押し付けるようなことがあったとしても、その結果、殺害というか虐殺(多数の力=権力によって行う場合は虐殺といっていいから)してはならないと思う。
 でもむろんスターリニズムがあるからといって、コミュニズムがその価値を失ったとはならないし、マルクスの仕事は、やはり偉大です。
 だから同じなんですね。ナチの起源はニ-チェにあるとしたり、スターリニズムの起源はマルクスだからマルクスだめとか。遡及論法の問題です。
 ナチズムもスターリニズムも資本主義もだめとなると、どんなプログラムがあるのか?それはこれから探求ということです。
 で、ローティ読んでて、こんなにすごかったのかと思っていまようやくプラグマティズムアメリカ哲学に啓蒙されていっているのですが、だって、真理は存在しないということを主題にしているとは恥ずかしながら知らなかったもので。というか、直接クワインとかデイヴィッドソン読んでも、なんやら難しいなあという感じで、まったく読めなかったもので。この点、ローティ、非常に明快で、はじめからローティから入門しとけばよかったと思ってるところです。
 


ギリシャ彫刻とかにおける美の理念とかw
>こういうコトも遊びでやるぶんには面白いと思いますけどね(つか、現にやってる人いるし。で、それがまたけっこうほんとに面白かったりするし)。

まあでも美というのも価値概念ですから、「醜い」とされたものは「退廃芸術」として消去されたわけで、あと、ああいう古代的な軍人的な筋肉美学は、他方で、身体障害者を収容所へ送ったわけですからねえ。「劣等」であるとして。
 でもこのへんも、遡及論法だと、冗談ではなくして、「美」も「合理性」もすべてナチに寄与したものはダメということになりますよね。
 で、いま思うのは、たとえばヴィスコンティとかパゾリーニとかゴダールとかベーコンとかリンチとかジャコメティとかベケットとかジョイスとか、やっぱナチからすると、「退廃」だとされるだろうと。そこで思うのは、たしかに「美」を主題とする芸術界においても、当然ながらホロコースト以後ということが前提となっている。舞踏とかでもいいのですが、なんであのような反美学的な様式が生まれたかのモチーフのひとつになっている。
 これはやっぱり美は価値であることによって、正の価値と負の価値を区分する境界線が当然あり、それがゆえ、イデオロギーにも独特の仕方で関与している。これは「美のイデオロギー」というジャンル内問題とちょっと違うところの、芸術の社会的機能という話しですね。すいません、前提的な話しから整理していきたいもので。
 でまあ、ナチがよしとした美学を退けるとなると、つまり遡及的な断罪でいくとやはり、マジで古典ギリシアはダメということになる。
 それでいくと、文化領域は隣接しながらも異なりますが、スポーツはヤバイとなる。オリンピックは、ナチだとなる。
 「健全な強度」、「強さ」といったものを肯定的な価値とするものは、ナチだとなる。

で、ま、ぼくがいいたいのは、そのような遡及論法はやっぱりなにかどこかで間違えていると思うのです。
 じゃナチを肯定するのかといえば、まさかそんなことにはならない。だから僕は、ナチはむろん嫌ですし、同様、今日の収容所社会=監視社会も嫌です。防犯防犯いって、過剰な監視カメラ設置も嫌です。かといって素朴に「自由」などの概念に安住することなどネオリベを擁護することになるから無理。かといって、個人主義全体主義のどちらかを取るかといえば、やはり個人主義をとる。「個人」など幻想だとかいって、私的領域に介入することは、「国家」や個人的な領域を超越したもの・力を優先的に価値づけていることになる。それをプチブルー!とかいったところで、それはただのアホなヘタレ左翼です。というかそんな連中は、ドクマティカーでこそこあれ、なんの左翼ですらない。ローティ=デイヴィッドソンらが粉砕した「絶対的真理」の存在を信じている。だから僕が以前、急進主義ではなく、漸進主義といったのは、プラグマティズムのようなことをいいたかったことになる。デューイ的な社会民主主義?でもまあそれはそれでどうかといまはまだ完全にプラグマティズムに同意はできない。かといって、ある説得的な魅力ある国家と社会に関するプログラムがあれば、そしてそれを実現するためにどうしても「革命」が必要なら革命を起こすべきでしょう。でも、そんなプログラムもないまま革命だーととかいったところで、たんに遅れてきたものによるイマジナリーな反復というか追随にすぎないし、そもそも無意味である。…

 

>『家畜人ヤプー』を世界文学史上無二の大傑作にしてこの世の真の真実(ヘンな日本語だが)を語りきった世紀の思想書と信じる身としては(笑)。

まだ読んでないのですが、ナチからすれば退廃極まりないですよね。
うん、だから、やっぱり、芸術は、「退廃的」でなくてはならないわけですから、「家畜人ヤプー」は芸術として正しい。
(やっぱりこうなると本当に、「健全な」芸術は、美学として採用してはならないとなるなあ。)


>社会の空気にせよ法的な禁圧にせよ(ってこの二つを一緒にしちゃいけないんでしょうが)、社会的に「そういうことを言っては/してはいけない」ってことになってるっていうのは、時と場合によったらいつでもどこでも悪いこととは言い切れまい、と私は思う、ということですね。

まあ極端な論理に対して、コモンセンス=常識を提示するということですかね。でもまそれでもやはり闘争から逃走することはできないかと。いや、なにかを論じる限り、どうしても闘争の様相を帯びてきますからねえ。闘争から逃走する=隠遁の戦略も結局はその後再び「地上」に現れるためだろうしw いやだから、絶対に疑うことのできないものは存在しないということです。ドグマであれ、「常識」であれ、「タブー」であれ。


>真摯な知的武装

まあ「知的武装」は必要ないかとw というかその語彙自体、もはやw
知的洗練は必要でしょうけれどw


>「触れれば血が出る」イッシューについて、そもそも「知的武装」みたいなもんで撃退出来得るものなんでしょうかね? 私はそういう点については非常に懐疑的であり、ですから社会的タブーの存在に(時と場合によっては)賛成するものでありマス。


まあぼくはだから懐疑主義を徹底したいということです。あるところに安住して、それを絶対的な真理=ドグマとすることを「タブー」というのなら、やはりそんな思考停止を定言命法とし抑圧をかけてくるような言論封鎖は、ダメです。カミキタザワさんの発言は、懐疑主義を徹底せずに、ドグマでいきますということですからwダメです。そう、だから「良識」などというものも、もはや存在しないのです。それが担保になってたような時代は過ぎ去ったのですw  (すみませんw 過ぎ去った、過ぎ去った、しつこいですかねw)


>研究・思索は(様々な意味で困難であることを内心に銘記しつつ)大いにやるべし!だからといってそれが所期の目的を果たせるとは思うなかれ(だって予期していたのとは正反対の結論が出るかもしれないんだから!)、といったところでありましょうか。


意図せざる結果の問題ですね。まあでもそれよりかは責任の所在の問題ですから。これもやはり、絶対に予防することはできないと思います。だって、プリコグじゃないわけで未来を予測することはできませんから。だから、ナチの話しで最悪なのは、たとえばヘッセに戦後、おれはユダヤ人を守ろうとしてたんだと言い寄ってきたナチ党員の、「なかったことにしよう」というやり方、うそのつき方の卑劣さです(三島憲一「戦後ドイツ」)。この卑劣さはやはり責任を取るということがまったく分かっていない事例です。でま、この卑劣さは、卑劣さということにおいて、今日の匿名ファシストの卑劣さと同様です。



>さすが九州男児、明快であります。

まあでも厳密にいうとぼくは純粋九州人ではないですよ。東北人とのハーフだしw、幼児期は東京で育ってますし。まあでも話しをシンプルにしたい、よく分からないようなことはやはり好きじゃないですね。でもそれは九州とはあんまし関係ないですよ。マチスモのエートスだったら関係あるともいえますが。まあ韜晦趣味のような都会的なw美学はあんまり分かりませんですはい。あいやkamikitazawaさんのアイロニズムのことではありません。


>レーニン
>歯の浮くような「ちょっとイイ話」
>(中沢新一死ね。笑)

「はじまりのレーニン」ですかw?ぼくは当時面白いと思いましたがでもおっしゃる批判はわかりますw

>パーソナリティについて納得のいく言及

うーん。ま人格で判断することに僕は疑問があるのですが、だってそれだと、「いいひと」のファシスムになっちゃうからw 性格悪くて結構!とは思います。まレーニンについては神話化もあるからということもあるのでしょう。ぼくも伝記的には知らないのですが。ジジェクレーニン論とかはいかがでしょう?まだぼくは未読ですが。
 いやでもなんであれ別に人格を好きになる必要はないと思いますw 僕はパウンドやジョイスベケットにも会いたかったけれど、会わなくてよかったかなと。だって、人格嫌いになったら、作品が楽しめなくなる。

>私は言うまでもなく暴力革命反対論者です。

うーん。革命否定の論理を聞きたかったのですがw
「言うまでもなく」といわんで、言ってくださいましw』(2006/03/08 21:36)
kamikitazawa 『>そういうノスタルジーを感じる世代というのは
>オヤジ世代でしかないのではないですかw?
いや、私はそういうものにノスタルジーはいっさいまったく感じてませんけれども。

>佐野本なんかもそういうオヤジを癒すためのものなんでしょw?
これはほんとにその通り。
佐野さんて人の客観的な社会的役割もそういうことだし>オヤジを癒すオヤジ(笑)。
外見はすげージジイなのにああ見えて戦後生まれ(バリバリの団塊)だし、『阿片王』のあとがきじゃあなんの脈絡も無く(としかオレには感じられない)「アンドレ・バザンが……」とか言い出すし。
だから『阿片王』って本も443ペイジもあるわりに読後感も「アレッ?」て感じなんだよ。なんか読み終わった後ビミョーに損したような気がするつーか。

>「昭和」的な?
また「昭和」って言われちゃったーい(笑)。
つかね、誰も彼も昭和昭和って難詰しすぎだよ(言い出したのはオレの睨むところテレ・ヴィ業界人)。
だいたい昭和って68年間もあって、平成ってまだ18年しきゃないんだよ。おまけに昭和にゃ大東亜/太平洋戦争とかまであるし。だから今あるものってのは大抵昭和製ですわ。それを「ショーワッ!ショーワッ!」て非難されてもねぇ。

>でももはやどんどん過去のものになっているような。
>つまり江戸時代にノスタルジアを感ずるくらい、
>歴史を再構成したうえでのノスタルジーになってて、
アプリオリに共通な時代感覚みたいなものは、
>消え去ったのではないかと。
いやですから、いかにアタマの悪い私とはいえ、そんなことは解かってますがな。

>それは経済成長による歴史・社会認識の断絶かもしれませんが。
>あ適当すぎますねw
いやほんとにそうでしょ。
少なくとも私はそう確信してます。

>若者wは、
>「オヤジ」であることを会社なり社会なりから
>求められることがあるとしても、
>さすがに感性において根っこから「オヤジ」になることは、
>よっぽど「反時代性」とかうそぶいて
>「自覚的」に再構成しないと成立しないかとw
いやだから、それも解かっております。

サライ」読んだり
>(あの雑誌まだあったっけ?)
あります。
オレに言わせりゃ「団塊の世代が昔の年寄り(それこそ「昭和」とかの)の風情を�お勉強�によって身に付ける為に買う雑誌」ですな。
とか言うオレも時々買ったことあるが(自爆)。

>あと20年してどんな「オヤジ」がいるのでしょうかね。
ですからいなくなってるでしょううね>オヤジ

>あんまり変わらず、「オヤジ」の再生産が行われているのかな。
だからそれは無いでしょ。

>でも若い保守層には、もはやそういうマチスモはないような気もする。
私も無いと思います。
あのテの人たちによる「DQNドキュン=ヤンキー/ツッパリ=不良・非行)攻撃」とかスゴいしね。その攻撃自体は私があの人たちに共感出来る数少ない部分だったりもするし(笑)。
こういうこと言うとまた「昭和!」って攻撃されるかもしらんが(笑)、いや日本て国はちょっと前までどういうわけか、あのテの「百の言葉より一つの暴力な体質のアタマ悪いひとたち」ってのを、そういう人たち内部のサブカルチャーのみにおいてではなく、メインストリームの部分においても持ち上げまくってましたから。反動が来て当然ですな。
なのでそのテの、この国における「肉体カルチャー」「やくざ文化」みたいなものが、まさに生理的に心の底からマジメにキラいな保守・反動層が一定のヴォリュームで出現したってのは、日本史上初めてのことかもしれません。

>むしろ防衛主義というか、安全主義というかそんなロジックですよね。
そうね。

>「大抵の日本人の男」とkamikitazawaさんが前提するようなことは、
>すくなくとも未来においては消滅するだろうとw 
>そういう時代的制約というか時代的な条件付けは、
>時間の残酷な流れのなかでw
>消えていくと。
いやですからこれも同意です。

頭山満とか杉山茂丸とかの三角木馬の話とかね。
あ、この話私知らない。是非知りたい。何に出てるのかなぁ。

>もまあその類のエピソードは奇人伝としてアリだろうとw
でもさぁ、これは佐野さんの書き方が悪いのか私の受け取り方が悪いのか解からないけど、「21世紀において見直されるべき先駆的な非・反・西欧知識人」「全先進国(白人列強!)を敵に回した世界戦争の理論指導者」「民間人でただ一人、『文明への犯罪者』と名指しされたA級戦犯思想家」が、<奇人伝>じゃ私はヤだなぁ。
だってそれだと今の熊楠受容みたく、サニタイズされて無毒化されてキャラクター化されちゃって、「しゅうめい可愛い〜」「オーカワ萌え〜」みてぇなことになりかねねぇもん。いやきっとそうなるね。冗談じゃねぇよ(笑)。

>だからまあ、
>kamikitazawaさんがおっしゃるようなそういう奇人的エピソードの
>「教育効果?」
>のようなものによってマチスモを奨励するなんてことはw
>もはや成立してないんじゃないすかねえ。
>つまり往年の「マッチョたれ」という抑圧的な命法みたいなものは。
>同じ理由で。
>つまり過去のものになってると。
いやだからそんなこと私はいっさいまったく心配してません(笑)。

>善意としての「和風」はやっぱただのプチナショなんで、ダメです。
そりゃそうだよ。私もまったく同意です。つか、私は単純に非常にキラいなわけです>善意としての和風。そういうのを作るヤツも喜ぶヤツもアタマ悪過ぎとしか思えないので。

>でもまあそういうマトモなロジックをムカシのひとw
>に求めてもしょうがないかとw
ギャハハ!!
激しく同意します。
この一言をあなたから引き出せただけでこの遣り取りには意味があったな(笑)。
常識とか大前提だと思うんだけどね私は、<マトモなロジックをムカシのひとに求めてもしょうがない>ってコトは。
でも誰もハッキリは言わないもんなぁ。

いやですから、私の<周明キンタマで熱燗バナシ>を受けてkairiさんがなんか突然けっこう長大な<現代未来オヤジ論>を展開し始めてしまって、「なぜなんだーっ?!あの話のどこをどう読めばオレがそんなこと心配してることになるんだーっ?!」て思いで、しかもそのオヤジ論が、「私はそんなこと心配してません」ってとこ以外はほぼ100%私が同意出来る内容だったってのも余計ワケ解からなかったところなんですが、これでやっと繋がるな(笑)。

つまり、<キンタマで熱燗>て話は、私にとって、<マトモなロジックをムカシのひとに求めてもしょうがない>ってことを絵にして可視化させて眼前に突きつけられたような効果がありまして、解かっていても情景がマザマザと目に浮かぶような形になると、さすがにショックを受けたりする、という、そういうことですな。
しかしそれでもなんでkairiさんが、私がマチズモの復活という深甚なる危惧を抱いてると読解したのかは解かりませんけども(笑)。

>結局、
>悩んでるモダニストということで漱石的ウジウジウダウダメランコリー>なんですが。
ぎゃはは。
近代以降の日本の芸術家はみんなそうでしょ。

宮台真司のようなズバヌケテ賢いひと
kairiさんは宮台助教授を認めてるんですな。
意外。
今は違うかもしれませんが己に知的自負心を持ってる歳若い人たちの間で、宮台氏の悪口さえ言ってりゃ自分の知的優越性の証明になるかのような雰囲気が蔓延してた時期があったもので。
それで「宮台ダメなら誰なのよ?」っていったら大抵東浩紀なんだよ(脱力)。
つか、「アズマ・ヒロノリ」という固有名詞ではなくて、「フランス現代思想ジャーゴンを生硬なまま多用する若いのにエラい学者さん」てことなんだな。
だからオレはそれ以来東浩紀がキラいになった(笑)。第一なに言ってるか解からねぇもん、アイツ。

>ただね、嫌韓、嫌中、嫌日の三すくみは、
>やっぱアジア主義以外に克服の道はないと思う。
>これ、なぜイズムじゃないとまずいかというと、
>たんに外交において友好関係を保つとかいうようなことだと、
>結局、ヴィジョンの欠如によって、
>すぐ感情的な近親憎悪になるからです(それがいまの現状)。
大賛成ですね。
私も若い頃は真剣にそういうことを考えておったゴホゴホ(笑)。
まぁそれじゃなきゃ生まれて初めて自分の意思で行った外国が韓国、なんて人にはなってませんわ。
でも一つだけ異見を提起させておらうと、kairiさんや私みたいな「支那に行って支那を獲ります!支那を獲って良い政治を施し、以って東亜解放の盟邦とします!」みたいなキチガイ要素のまったく無い日韓中(あと朝も台もだけど)のごくごくフツーの圧倒的大部分の人たちは、黄色人種キラいなんですわ。
自分が黄色人種であることにはなんとかかとか折り合いをつけてるけど、隣の国の黄色人種なんてのはガマンならない。
だからそういう部分が「アジア主義」のアポリアだと私は深く思うんですがいかが?

>ゴビノーの方が重要というのもフランス中心史観っぽくてw 
>まさかkamikiatazawaさんがおフランスであるとは思えないのですがw
はは。
いやゴビノーはまさに「おフランスのイヤミさ」の塊みたいなヤツだから非常な興味を掻き立てられるわけですよ(笑)。
あと真面目に答えれば「究極のイヤミさが生み出す怖さ」ですかね、「周明よりゃゴビノーでしょ」ってことの答えは。
ゴビノーって「虐殺やむなし」(←これはゴビノーにはあんまりないか)「滅亡やむなし」ってところがあるでしょ?で、周明にはない。いっさいない。
そーゆーとこが周明って、「調子良いことばっか言ってやがるけど現実性あんのかソレ?」って印象に繋がっちゃうってことですね。

>あと
>kamikitazawaさんのようなエピソード的な理解の範疇で収めるのは、
>まあそれはそれで笑えていいのですが、
>それだとそこで終わってしまうので。
うーん、まさかこんなマジメ/マトモな朝日・岩波的批判をされようとは(笑)。
いやでもね、それこそ費用対効果の面から言っても、<エピソード的な理解の範疇で収め>て終わらせときゃ充分て人も多いからね。
それに<エピソード>ってある程度数集めないと<理解の範疇>にも収まらないですし、私だってそれなりのコトはゴニョゴニョ、とは言っときたいですね、小声で(笑)。

>たしかに「美」を主題とする芸術界においても、
>当然ながらホロコースト以後ということが前提となっている。
>舞踏とかでもいいのですが、
>なんであのような反美学的な様式が生まれたかの
>モチーフのひとつになっている。
いいですねここ↑は。
アウシュヴィッツのあと詩を詠むことは野蛮である」
ってヤツですな。
なんかこの「アウシュヴィッツのあと…」発言に関しては、ハナで笑っときゃいいって決定したみたいなことになってるけど(福田和也なんかはまさにその立場だ)、いま求められてるのは「アウシュヴィッツのあと詩を詠むことは野蛮である!」と堂々と宣言することであり「まさにその通り!」とその発言をハッキリ肯定することではないですかね。私はそう思います。

>スポーツはヤバイとなる。
>オリンピックは、ナチだとなる。
これはその通りなんじゃないですか。
私がスポーツ大嫌いってのはおくとしても(笑)。
だから反美学的様式を生むということで取り敢えず答えを出してみせた芸術という分野と違って、21世紀の今もホロコーストショアーがなかったかのような価値観で展開してるスポーツというものに対して、特にそういう「太平楽な大時代さ」が凝縮してるようなスペクテイタースポーツに対して、ここに来て、「スポーツって、もしかして、イコール・バカ? バカと等号で繋がる?」みたいな雰囲気が日本に限らず立ち現れてるんじゃないですか。

>遡及論法の間違いと漸進主義
概ね同意でありますが(特に漸進主義には全面同意)、kairiさんもご推察の通り私という人間には思想検事みたいな体質が根深く巣食っておりまして(笑)、「大いに遡及すべし!」「言論人が無答責なんてことがあるかぁッ!」と絶叫する部分もあるのですね、上記スポーツ責任論みたいな。
だからまぁいつもの論法ですが、「遡及も時と場合による」「アンマリにもアンマリなものに関しては遡及もアリ」ってことですな。

>『家畜人ヤプー
>まだ読んでないのですが
ヤプー』にはメチャクチャいっぱいヴァージョンがあるんですがそれは全部古本になります。
現行品は幻冬舎文庫から全5巻で出てるヤツのみですね。
私としてのオススメは角川文庫版です。ネット古本屋で¥2,500くらいなので、¥680もする文庫を5冊も買うことを考えたらかえって廉く付きます。
購入する場合は是非角川文庫版を!(セイルスマンかオレは!笑)

>知的武装
>というかその語彙自体、もはやw
笑われてしまいマスタ。
確かに竹中労とか平岡正明とか(知らない?)、昔の新左翼評論家(いやホントにいたんだよそういうイキモノが)みたいだ。恥ずかしー(笑)。

>カミキタザワさんの発言は、懐疑主義を徹底せずに、
>ドグマでいきますということですからw
>ダメです。
>そう、だから「良識」などというものも、
>もはや存在しないのです。
>それが担保になってたような時代は過ぎ去ったのですw
>(すみませんw 過ぎ去った、過ぎ去った、しつこいですかねw)
そんなことくらい解かってますけどね(ってナニ拗ねた口調で言ってんだオレは!笑)。
でもそういう全面懐疑主義だと金持ちが有利だよなぁ。いや金持ちはいつでも有利だけど、様々なのものに交換可能な何かを、バシャバシャ持ってるヤツがヨリ生きやすい/生き残れる社会つーか、いま小菅ヒルトンに行っちゃったホリエモン氏が体現していたとされる価値観/社会観つーか。
でもそんな社会が持続可能だとは私には思えないんで、過渡的なものなんだろうと思いますけどね私は(アメリカは持続しているが)。

>だから、ナチの話しで最悪なのは、
>たとえばヘッセに戦後、
>おれはユダヤ人を守ろうとしてたんだと言い寄ってきたナチ党員の、
>「なかったことにしよう」というやり方、
>うそのつき方の卑劣さです(三島憲一「戦後ドイツ」)。
>この卑劣さはやはり責任を取るということが
>まったく分かっていない事例です。
↑これは私も思いますね。
「ナチの最悪さは権力獲得過程や戦中の悪行ではなくて(いやもちろんそれも重要だけれども)、ドイツ敗戦後の卑劣さである」という感覚ですね。
でもまぁ権力犯罪が発覚・断罪されていく収拾過程における当事者の態度ってのは日本でもロシアでもアメリカでも判で付いたようにどこでも同じで、「生きるためにやった」「より多くのもの(地位とかカネとか)を獲得するためにやった」「みんなそうだろ?」「まったく恥じるところなどない」って来るワケよ。
実際ウンザリしますわ。

>kairiさん九州男児
シャレですから(笑)。
しかし細かい成育歴を見るとホントに九州人じゃないですな(笑)。

>「はじまりのレーニン」ですかw?
そうです。
だいたい中沢新一ってカネ持ってるだろうに多摩センターで働いてるからって上北沢なんて所に住んでたことあるんだぜ!そんな人間信用出来るかよ!

>うーん。ま人格で判断することに僕は疑問があるのですが
また真面目な批判をされてしまいマスタ。
いやでも「レーニンてどういう人間?」という邪道な(笑)視点で追いかけていくと、知名度に比較して資料がなくて実際ビックリしますよ。
ゴルバチョフ末期以降に出たものじゃないと、「聖人伝」か「ちょっといい話」か「バケモノ」かのうちのどれかですから。

>まレーニンについては神話化もあるからということもあるのでしょう。
その通り。
さすがに教科書には書いてなかったけど、副読本に「いい人でした」みたいなエピソードが載ってたり、別に左翼でもない教師が「大人物ですよ」ってホメたりね。

ジジェクレーニン論とかはいかがでしょう?
ジジェクレーニン論ね、メモメモ。

>いやでもなんであれ別に人格を好きになる必要はないと思いますw
そりゃそうだけど、とにかくレーニンにつては「どういう性格/性質だったのか?」ってことすらさっぱり解からないから。

>うーん。革命否定の論理を聞きたかったのですがw
>「言うまでもなく」といわんで、言ってくださいましw
最後の最後なんで短く答えますが(笑)、「歩留まりが悪過ぎる」ってことに尽きます。つまり殺し過ぎってことです。』(2006/03/11 02:00)
kairiw 『どうもです。いま大阪に来ています。応答はまた帰ってからということで。ではー。』(2006/03/14 00:57)
kairiw 『そろそろコメント欄容量オーバーだろうから、3/3のコメント欄に移行しました。』(2006/03/29 04:21)