なんとなくベケット

最近忙しいのに、それに追い討ちをかけるように、いろいろなひとと出会い、話すことが多い。出来事というには大袈裟なのかもしれないが、それでもいろいろな情報を交換し、入手したりで、そのことを記録するとなると、膨大なものになる。
 妄想や考えなども、早いと感じることが多いが、こうした交換も、速度が速いように感じる。それは過去化されたものを、現在の観点から思い直すがゆえ、そのように感じるのだろうか。


 sくんとは、よく喋った。そのなかでも特筆すべき情報は、ストリンドベリベケットとのカップリングについてであった。イプセンジョイスの系列と、ストリンドベリベケットの系列。これについては知らないことだった。文脈は、ベケット神話批判であった。


 井の頭公園での「森の物語」でもまた、いろいろなひとと逢う。
上演については、昨年の「森の微笑」が、「微笑」どころか、「哄笑」すら起きそうなほどに、雷雨を背景とした、「神話的な」上演だったがために、それとどうしても比較的に見てしまう。それにしても、昨年は、実に、ヤバイものだった。「奇跡」とかいう言葉を簡単には使いたくはないのだが、上演ー身体ーダンスー自然とが、まんまコレスポンダンスする様を目の当たりにしてしまうと、言葉を失う。雨に延々打たれつづけながら、緩慢な動きを見つめるという観劇体験というのも、マゾヒズム的な快楽なのだろうか。雨がどんどん体温を奪っていくなか、ただひたすら見続けるということ。ある途方も無い馬鹿馬鹿しさ、自身の行為の滑稽さみたいなものにくすぐられるなか、クライマックス的なソロシーンで、雷が、光る。嘘=虚構を見ているのだが、その見ていること自体が、虚構化されたような。「自然」という「外」ならではの、なせることとでもいうのか。

 「森の物語」の上演内容は、もちろんおもしろかった。そうして、私が、上演中考えていたことは、「作家主義」とかについてだった。別に、とりとめもないことだ。
 布にくるむというセノグラフィーで、ベケットのなんとかという作品で、壷のなかから顔を出しているのを思い浮かべる。
 
 

 終演後話されたことの話題メモ。mさんに、スペクタクル、アガンベン、身振りの不可能性とかの話しを聞く。フォアマンが引退したかもとか。シラトとか。
 ニューヨークより来られていたkさんに、エレヴェーターリペアカンパニーとか、オイスターカンパニー?とか。任那とか。痰壷についてとかw

 飲んで飲まれて、a君の誘導で、西荻窪。久しぶり。そうして、幸運なことに、ベケットの「フィルム」を見させてもらう。知覚よりの逃走とか、ドゥルーズの「フィルム」論。
 コンセプトとか、映像で行われていることがアタリマエ、ベケットだから、スーパーA級なのに、テクスチャー?が、とてつもなく「B級」なのに、驚く。これが「貧しさ」という否定美学?なのだろうか。
 バスター・キートンのまぶたのしわ、手指の太さ。キートンのスタントアクションもまだすべて見ていない。
 「観点」。「見られる」こと、知覚されること。一週間前、バークリの「人知原理論」を偶々触っていたのだったが、面白いのは、こうして、偶然、「文字」の体験が、「現実」化するというかリンクすることだ。
 悪循環とかについてもなにか話した気がするが、忘れてしまった。

朝方、sさんと東アジアにおける、「帝国主義」同士の争いについて。
 

 打ち合わせ。


 古本屋でトインビー。買わなかったが、いつか読みたい。


 もう2年とか3年ぶりだとかに、音羽館に行く。一時は毎週のように本を売りに行っていた。もう4、5年が経つのか。人生がまったく予想しなかった方向に軌跡を描いてきたことを、感覚する。
 クルティウス「ヨーロッパ文学とラテン中世」が痛んでいたとはいえ大変お買い得だったので、購入。

 かつて住んでいた場所に、時を隔てて行くと、どうしてもノスタルジーの感情が沸くのだろう。それは皮膚のように風景を感覚する感じである。幻肢みたいな感じなのか。住んだ場所には、どうしても「身体」が拡張されるのだろうか。「住まう」こと。身体、空間、場所。ああ、環境世界みたいなことでもあるのか。抜け殻に再び入り込むような。