kairiw2004-12-20

中野で大橋さんと打ち合わせ。
デュラスの「苦悩」をやっと見つけた。

苦悩

苦悩

鉄腕アトム」と「人間ども集まれ」。
まんだらけ、というか中野ブロードウェイって、あらためてすごいよな。
アジア的ハイブリッドというか、細かいというか、縮み志向というか。
白人男性(ひとりで)が多く見られた。

なくなった佐藤さんと秋葉原になんどかいったけれど、中野はまた独特。
変である。というか、単純に不思議。

いわゆる「おたく文化」については、いまもなおさんざん議論/分析が行われているが、それにしても、これ、どうなるんだろうか。いつの日か、かつての「純文学」のように、支持層がいなくなるということは、あるのだろうか。
 50年後、手塚治虫や藤子不二夫は読まれるだろうか。さすがにそうはならない気がするが、どうだろう。いまはまだぼくの世代は、ベビーブーム第2世代(この言い方も聞かなくなった)ということで、あの時代へのノスタルジア感情によって、産業として成立させている。ぼくたちの世代が、80才になったら、さすがに様変わりするだろうが、つまり21世紀が、21世紀として成立しているのだろうが、それにしても、どうなるのだろうか。
 マンガもロックも、20世紀後半における達成は、現在は、永遠なるものとして認知されている。まだあと15年は続くだろうし、50年後も、一部では、そのように認知されるのかもしれない。
 骨董。
 骨董の世界も、ノスタルジアなのか?
 一部はそうだが、一部は、もう「歴史」というやつか。
 
 ギリシア、ローマ、古代オリエント、中国、インド、いわゆる「文明」。「近代文明」?資本主義文明か?
 もっと細かく。ゴシック、ルネサンスバロック新古典主義ロマン主義モダニズムポストモダニズム、ポップ、…様式論ではなく、なんというか、ある「時代精神」の集合とでもいうか。
 20世紀文化と19世紀文化の断絶も、いわれるほど、ない、とすれば、20世紀と21世紀も、表層の様式は細かく変容していくだろうが、断絶もなさそうだ。まあ分からんが。
 テクノロジーの進展も、もはや成熟の域に入っている気がするし、どうだろう、なにかとてつもないテクノロジーは、生まれるだろうか。
 大きな出来事、人類史的な出来事はどうか。
 新たな形式での戦争…
 災害というのは、大きな要素として、ある。
そう、アトムで、阿蘇山が出て来たので、阿蘇山について調べるつもりだった。
阿蘇山はいつ噴火したのか。そのとき、九州はどうだったのか。あれだけでかい山だ。
たしか富士山よりもでかかったというし、その規模は世界有数とも世界一とも聞いた。
ちょっと、調べよう。

 情報は、むちゃくちゃ増えた。
 海外の翻訳も、相当、ある。というか、もう「海外」の意味が違う。
 
親父の世代の場合、戦後ということだが、本の需要、本への欲求は、ものすごいものがあったという。
 都丸書店の話しがすごかった。戦後、大学図書館なり、学者なりが、毎日、買いに来るわけだが、棚に、本がなかったという。つまり、ぜんぶ売り切れ。入荷しても、すぐに売れたらしい。売れる八百屋みたいに、本が売れる時代。まあそれはすぐおさまったようだが。
 
 この十年でずいぶん古本屋も潰れたし、また、新規に開店していもする。

本が好きな人間がいなくなるということは、ありえないと思われるが、しかしそれでも数年前は、やばかった。いまは安定しているようだ。数年前といえばITバブル?90年代後半はウルトラ未来志向であった時代。
 みんな未来派だったよなあ。
 
いくら形式の変化に応じて、内容も変化するといっても、内容がまったくないまま、新しいところへ行くわけがない、それでも古本屋業界への風あたりは強かった。風当たりというか、影響か。
 
 いまもきついとは聞いたこともあるが、実際、現在、読書文化はどうなっているのか。
 みんなが図書館に行っているわけでもないだろうし、事実、新刊書籍は、いまでも出ている。ただ、たしかに、単行本は減ったような気がしないでもない。
 
 本ねえ。収納スペースの問題が一番のネック。ぼくの棚は7、8年前にすでにマックス値になった。棚は6つがもう限度だ。ずいぶん売った。一度にダンボール5箱とか売っていた。だから、いろんな本があったんだろうし、一部は覚えもしているが、現在、また、マックスである。
 ルーマン関係、原書も含めて、ハバーマス、ウェーバーeconomy and society、パレート(「精神と社会mind and society」全4巻)、階級関係、社会史、社会調査関係、明治の新聞史、近代史関連、経済学、センとか、ヨーロッパ中世史、ブローデル、売ったなかにはバタイユの無神学大全もあり、あれは失敗した。
 そうか、社会科学関連は、7割りは手放したのか。
 
自分がどうして、一部、記憶喪失のようになっているかが分かった。たしかに、4、5年かけて蓄積したものを、ほとんどずべて喪失したわけだ。他の事情も重なって、ぼくは急激な変化を強いられたのだった。もともと気狂いと子供のころから言われていたくらいなのに、それに輪をかけて気狂いみたいにも、そりゃなるわ。

社会学辞典、経済学辞典、その前の前の時、世田谷時代では、ヘーゲル関連を売った。
あとはマルクス主義関係、青木書店、共産党系のオーソドクシ−。くろかんすら持っていたなあ。向坂逸郎とか。
 しかしそのころのは一部、実家にある。

s君にもかなり売った。科学哲学とか分析哲学…あれのなかになにが入っていたか、もう思い出せない。ルーマンとか?

 当然だが、引っ越しのたびに処分している。松庵のころは、変容のためか、引っ越しでもないのに売りに行っていた。
 そのころ、社会科学と決別したのか。
 で、文学に回帰したのか。それで、またどつぼか。
 文学に回帰して、また本が増えて行く。そりゃーそうなるよね。
 親父の遺志の継承という作業。
 そうして、破裂した。
 
 マンガから本の話しに移ったのか。わからなくなってしまった。

 でも、もう、cdも文学も、そろそろ売っていかないといけない。
 自分がどの本と関わりを持ったかを記録さえしていれば、問題はないはずだ。 
 
蔵書の整理で、もうずいぶん時間が取られている。6年くらい?それとも一生、続くのか?まあそれはないだろう。いまはぼくもだいぶん安定している。棚もそう変わってはいない。
 
 と、ここでいきなり、<人間の歴史とは言語の歴史である。>
 あるいは、人間とは言語である。
 人間のすべての行為は、言語の歴史のなかに収まるものである。
 ブロツキー。
 
 すこしずつ、読書を減らして行こう。
というと、違うのか。
 本の減らし方について。
 勇気、決断、…?

 図書館で。というのは無効だ。図書館がないところに住んだら、成立しなくなる。
 
 実家に送ればいいのか?

 まあ、こんなこと考える前に…、いやでも、しかたないことだ。もはや本と関わりを持った以上、関わりを打ち切るにせよ、こんな話しはしかたない。

 一時間が、無駄であったかどうか。