ベルニーニとボロミーニ

阿部良雄「西欧との対話」河出書房新社p114 ボヌフォア


バルテュスクールベのおそるべき才能とは、対象との同一化能力」p125

どの本を東京に送るかということは、東京にある本をどう処理するかということであり、つまり少ない収容空間のエコノミーということである。収容空間が限界値に達しているため、ぼくはいつまでも本の整理についてもぞもぞしている。整理とか収容とかの問題を考えないと、やばい事態になる。それは数年前に体験した。結局、どうにもならなくなって、売り飛ばす結果になる。吉祥寺の古本屋に買い叩かれたっけ。以来、あそこではほとんど買ってない。
 そもそも、これはなんの問題であるのか?それは、選択の問題だ。アタリマエ。
 実用主義でいけば、読んだ本を売っていく。しかし、売れる本と売れない本がある。
 雑誌、論文集がまたくせものだ。関心、興味などは、ずっと同じで変わらない場合もあれば、ころころ変わる場合もあり、結局、ぐるぐる回って、また前の関心に戻ったりする。
 ストイックに関心を限定したこともあった。しかし、それは「研究」のためであり、快楽としての読書を否定、抑圧したものだった。そのころに収集した「資料」はほぼすべて手放した。ということは、残るのは、結局は、快楽の対象としてのものということだ。快楽は、抑圧されると、おそらくは、必ず、歪んだ形で、主体を迷わす。
 快楽こそは、肯定されねばならない。そのうえで、事を成さねばならない。
 ヴァレリーラルボーは、「研究」を悪徳のひとつとして挙げていた。
 実用主義と快楽主義との対立葛藤。

いかに住むべきか、とかいうことにもなる。
となると、これはいかに生きるべきか?ってことだ。
そうか、人生の方針が定まらないと、本も整理できないのか。

 初版本を収集する趣味はない。ということは、その点では、ぼくは実用主義だ。

 そう、こうやって、ひとつひとつ確認していこう。そうしないと、ほんと、うつうつしてくる。
 
 なにに興味がありますか?

 歴史です。
 歴史というと漠然としているが、いま、ほんとうにいわゆる「世界史」に興味がある。先日買った「クロニック世界史」がものすごく面白くって、いつかあきるのかもしれないが、いまはぱらぱらめくるたびに、興奮している。
 この歴史には、哲学・思想史も含まれる。ラッセルの西洋哲学史は、まさに「世界史」として、大変面白いものだ。
 
 それで、ヨーロッパ文学とラテン中世に興味がある。クルティウス、でもあるが、そうではなく、とりあえずひとことでいえば、ダンテについて知りたい。すなわち、詩とはなにか。
 以前大阪で入院していたころ、自分の関心領域を三つに分けたことがあった。
 <神学>:哲学、宗教学が含まれる。
 <詩学
 <社会学>:これは<政治学>と言いなおしてもいいが。資本主義。ファシズム
       抵抗。
 もはやこの分類は使えないが、<詩学>つまり文学を中心として諸芸術について。理論・方法論、各領域史。
 詩の歴史について。ダンテ、ジョン・ダンヘルダーリンボードレール、パウンド。
 
 聴覚、視覚。音楽、絵画、映画。…舞台芸術
 やはり統合できていない。
 舞踊の快楽について。身体運動自体が持つ快楽。養生法、スポーツ。
 フォルム、静止したカタチ。彫刻との類比。
 シーンという単位で考えると、絵画との類比。
 運動。およびシーケンス。時間芸術、とくに音楽との類比。
 
 これでいくと、舞踊は美学と関わる。アタリマエ。
 美学と詩学との違いはなにか?
 「言語芸術」という言い方がある。
 
 舞台芸術と言語芸術。

 身体と言語。
 1.身体主義。すべては身体のなせるわざという言い方。
 身体器官を通しているという意味ではたしかにそうだ。
 2.言語主義。すべては言語のなせるわざ。
  記号論的な見方。
 どちらかを選ぶ必要があるのか。折衷は可能か。
 私の場合、選ぶことができたのなら、こうしてもぞもぞしていないだろう。
 選べないということ。これは致命的な誤謬だろうか?


おそらくこうした一連の問題は、主体化の問題なのだろう。
主体性論争、またか。
しかし、プロブレマティックを忘れてしまった。
 サブジェクティヴィティ、主観性…
 おまえの主体はどこにある?
だが、そんな恫喝、どうでもいい。
 と語る主体について。
 自分はなにものか?
 そうではない。自分がなにものであるかを選ぶということ?
 
 なにをやりたいのか?わたしの欲望とは?
 
 精神分析的に考えれば、亡き父の遺志の継承。
 そうすると、それは他者の欲望である。
 ああそうか。そこで、主体の問題か。

 ジョイスユング精神分析を受けなかったことが正しかったと、ラカンか誰かが言っていた。精神分析の目的は、主体を持つということ。
 自己治療?としての…
 
 原罪ならず、原病?あらかじめわれわれは病気である。
 病い。
 

 記述、報告、表出
表現とコミュニケーション。コミュニケーションのひとつとしての表現行為による関係形成。
 あるいは知ることの快楽。知りたい!
 どうにもならなくなって、カタストロフ。
 舞踊とは、カタストロフィー。
 メールシュトレームだ。
 この見方は、たしかに表現主義だ。
 キルヒナー。
 
 
 しるしへの反応とは、ほとんど本能であるということ。
 シーニュ、サイン、症状、兆候、記号、徴、しるし…
 蜘蛛の世界。
 ユクスキュルの環境世界。
 
 ひとはしるしなしに生存不可能である。言語、意味なしの生に耐えられないということ。ああ、意味の病いか。
 
 ハンス・ティース=レーマンさんの「ポストドラマ演劇」同学社。
 思えばあの本なしにミュラーフェスに参加することはなかった。
 もういちど読みなおそう。

フランクフルトのムーソントラムのレストランで、レーマン教授のお弟子さんと会った。ホーゲさんについての劇評。
 あの店には、ベケットのポスターが飾ってあった。
 カジュアルであったムーソントラム劇場。
 ああいう劇場があればなあ。というか、観劇というハビトゥスがあのようにカジュアルであればいい。なんなのだろう。あれは町の雰囲気だ。
 フーリガンファナティシズムには辟易したが、フランクフルトの空気はかなり気に入った。通りの密度、空間がゆったりしている。
 ピリピリしてもいたが、ヂュッセルドルフのピリピリにはまいった。
 フランクフルトはやはりテロを警戒しているのだろう。ホーゲさんが不況なのか、去年このレストランではもっとお客がいたといっていたが、いま考えると、むしろテロだろう。外国人への恐怖、嫌悪、差別。
 美術館にはなんかむちゃくちゃひとがいたが。しかも、結構狭い。しかし、レイアウトはすごかった。緑の壁だったか。あのような凝り方、こちらの展覧会では見られない。
 
http://www.spiegel.de/wissenschaft/

シュピーゲル