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ベルニーニとボロミーニ
バルテュス「クールベのおそるべき才能とは、対象との同一化能力」p125
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どの本を東京に送るかということは、東京にある本をどう処理するかということであり、つまり少ない収容空間のエコノミーということである。収容空間が限界値に達しているため、ぼくはいつまでも本の整理についてもぞもぞしている。整理とか収容とかの問題を考えないと、やばい事態になる。それは数年前に体験した。結局、どうにもならなくなって、売り飛ばす結果になる。吉祥寺の古本屋に買い叩かれたっけ。以来、あそこではほとんど買ってない。
そもそも、これはなんの問題であるのか?それは、選択の問題だ。アタリマエ。
実用主義でいけば、読んだ本を売っていく。しかし、売れる本と売れない本がある。
雑誌、論文集がまたくせものだ。関心、興味などは、ずっと同じで変わらない場合もあれば、ころころ変わる場合もあり、結局、ぐるぐる回って、また前の関心に戻ったりする。
ストイックに関心を限定したこともあった。しかし、それは「研究」のためであり、快楽としての読書を否定、抑圧したものだった。そのころに収集した「資料」はほぼすべて手放した。ということは、残るのは、結局は、快楽の対象としてのものということだ。快楽は、抑圧されると、おそらくは、必ず、歪んだ形で、主体を迷わす。
快楽こそは、肯定されねばならない。そのうえで、事を成さねばならない。
ヴァレリー・ラルボーは、「研究」を悪徳のひとつとして挙げていた。
実用主義と快楽主義との対立葛藤。
いかに住むべきか、とかいうことにもなる。
となると、これはいかに生きるべきか?ってことだ。
そうか、人生の方針が定まらないと、本も整理できないのか。
初版本を収集する趣味はない。ということは、その点では、ぼくは実用主義だ。
そう、こうやって、ひとつひとつ確認していこう。そうしないと、ほんと、うつうつしてくる。
なにに興味がありますか?
歴史です。
歴史というと漠然としているが、いま、ほんとうにいわゆる「世界史」に興味がある。先日買った「クロニック世界史」がものすごく面白くって、いつかあきるのかもしれないが、いまはぱらぱらめくるたびに、興奮している。
この歴史には、哲学・思想史も含まれる。ラッセルの西洋哲学史は、まさに「世界史」として、大変面白いものだ。
それで、ヨーロッパ文学とラテン中世に興味がある。クルティウス、でもあるが、そうではなく、とりあえずひとことでいえば、ダンテについて知りたい。すなわち、詩とはなにか。
以前大阪で入院していたころ、自分の関心領域を三つに分けたことがあった。
<神学>:哲学、宗教学が含まれる。
<詩学>
<社会学>:これは<政治学>と言いなおしてもいいが。資本主義。ファシズム。
抵抗。
もはやこの分類は使えないが、<詩学>つまり文学を中心として諸芸術について。理論・方法論、各領域史。
詩の歴史について。ダンテ、ジョン・ダン、ヘルダーリン、ボードレール、パウンド。
聴覚、視覚。音楽、絵画、映画。…舞台芸術。
やはり統合できていない。
舞踊の快楽について。身体運動自体が持つ快楽。養生法、スポーツ。
フォルム、静止したカタチ。彫刻との類比。
シーンという単位で考えると、絵画との類比。
運動。およびシーケンス。時間芸術、とくに音楽との類比。
これでいくと、舞踊は美学と関わる。アタリマエ。
美学と詩学との違いはなにか?
「言語芸術」という言い方がある。
舞台芸術と言語芸術。
身体と言語。
1.身体主義。すべては身体のなせるわざという言い方。
身体器官を通しているという意味ではたしかにそうだ。
2.言語主義。すべては言語のなせるわざ。
記号論的な見方。
どちらかを選ぶ必要があるのか。折衷は可能か。
私の場合、選ぶことができたのなら、こうしてもぞもぞしていないだろう。
選べないということ。これは致命的な誤謬だろうか?
おそらくこうした一連の問題は、主体化の問題なのだろう。
主体性論争、またか。
しかし、プロブレマティックを忘れてしまった。
サブジェクティヴィティ、主観性…
おまえの主体はどこにある?
だが、そんな恫喝、どうでもいい。
と語る主体について。
自分はなにものか?
そうではない。自分がなにものであるかを選ぶということ?
なにをやりたいのか?わたしの欲望とは?
精神分析的に考えれば、亡き父の遺志の継承。
そうすると、それは他者の欲望である。
ああそうか。そこで、主体の問題か。
ジョイスがユングの精神分析を受けなかったことが正しかったと、ラカンか誰かが言っていた。精神分析の目的は、主体を持つということ。
自己治療?としての…
原罪ならず、原病?あらかじめわれわれは病気である。
病い。
記述、報告、表出
表現とコミュニケーション。コミュニケーションのひとつとしての表現行為による関係形成。
あるいは知ることの快楽。知りたい!
どうにもならなくなって、カタストロフ。
舞踊とは、カタストロフィー。
メールシュトレームだ。
この見方は、たしかに表現主義だ。
キルヒナー。
しるしへの反応とは、ほとんど本能であるということ。
シーニュ、サイン、症状、兆候、記号、徴、しるし…
蜘蛛の世界。
ユクスキュルの環境世界。
ひとはしるしなしに生存不可能である。言語、意味なしの生に耐えられないということ。ああ、意味の病いか。
ハンス・ティース=レーマンさんの「ポストドラマ演劇」同学社。
思えばあの本なしにミュラーフェスに参加することはなかった。
もういちど読みなおそう。
フランクフルトのムーソントラムのレストランで、レーマン教授のお弟子さんと会った。ホーゲさんについての劇評。
あの店には、ベケットのポスターが飾ってあった。
カジュアルであったムーソントラム劇場。
ああいう劇場があればなあ。というか、観劇というハビトゥスがあのようにカジュアルであればいい。なんなのだろう。あれは町の雰囲気だ。
フーリガンのファナティシズムには辟易したが、フランクフルトの空気はかなり気に入った。通りの密度、空間がゆったりしている。
ピリピリしてもいたが、ヂュッセルドルフのピリピリにはまいった。
フランクフルトはやはりテロを警戒しているのだろう。ホーゲさんが不況なのか、去年このレストランではもっとお客がいたといっていたが、いま考えると、むしろテロだろう。外国人への恐怖、嫌悪、差別。
美術館にはなんかむちゃくちゃひとがいたが。しかも、結構狭い。しかし、レイアウトはすごかった。緑の壁だったか。あのような凝り方、こちらの展覧会では見られない。
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