タスク、ロヨラ

昨日の15(水)は、麻布dpで、深谷正子演出「よるのそくど」出演 岡田隆明、縫部憲治 成田優美子 玉内集子。山本悍右(かんすけ)というシュルレアリスト詩人/写真家を素材としたもの。
 さすが、という感がある。cdの山。蜘蛛の巣状に、糸で、空間を切って行く。作業。
タスクだかワークだか、「ダンス」より「作業」へという変換は、イヴォンヌ・レイナー/ジャドソン・チャーチが有名であるが、現在、日本でも、こうして観ることができるということだ。単純な、「作業」あるいは「行為」そのものへと、身振りが還元され、その反復によって、時間の層が作られていく。ポップ/キッチュに慣れた現在のニッポンの感性は、もう30分が過ぎるあたりで、蒸発する。そうして、あとはストレス/退屈となっていく。ある意味で、これこそ、「教育」である。だが、「無為の」。
 ぼくも途中、寝たのだが、快/不快の境界線にずっと立たされるといおうか。
モダンダンスも、かつては、このような舞台を多く作っていたようだ。藤井公さんなどは、たしか「キンダーガーデン」とかいう作品で、ただ、幼稚園だか小学校の教室の椅子が放置されてあるだけの作品も作ったりしていたようだ。ぼくは、というかぼくだけではないが、いわゆる「コンテンポラリー」というコードに慣れた者にとって、「モダンダンス」は、謎である。モダンといっても、ひどいのはいくらもあるし、本当にうんざりさせられたものもあった。まあ「業界」としてのコンテも、おさむいのだが。
 深谷さんの作品をとりあえずぼくはモダンダンスのハードコアであると考える。
まあそんなことより、後半、4人のダンサーが、列となってからの展開に、ぼくは感銘をうけた。夜の方へ。「迷宮」。ベケットのクワッドのようだ。
 物の処理については、学ぶべきところが多い。
こういう明晰な仕方での、解体もあるのだ。
長い時間をかけて、独自に「無駄」を削いで行くと、自ずとミニマリズムになった。
深谷さんとの会話。岡田隆明さんとの会話。
 
「舞踏」の歴史、土方巽の仕事の裏で(当時は表だったのかもしれない)、こうしたことが淡々と続行されていたのだろう。
舞踏はやはり派手だったし、ファナティックでもあった。それゆえ、ぼくは好きでもあるわけだが、一方で、こうしたものも好きである。
学生のころ、モノローグ演劇を構想したことを思い出す。


ロラン・バルト「サド・フーリエロヨラ」。サド論。しかし、ロヨラ。面白そうだ。
閉ざされた空間…
オルギア
チョコレート