BURN AWAY ! 北米南部と「外」、非国民的観点から

 ネットでちょっと調べて、再発見したことがあった。映画「エンゼル・ハート」の舞台がニューオリンズであったということ。
 アラン・パーカー監督の「エンゼル・ハートエンゼル・ハート [DVD]や「ミシシッピ・バーニング」ミシシッピー・バーニング [DVD]は、私が中学生だった当時、週一日だけ許されていた寮の外出日の殆どすべてを映画館通いに費やしていた折りに見たもののなかでも、優れて印象的な映画だった。もっとも、外出すなわち映画であったあのころに見た映画はすべて懐かしくある独特の愛着がある。「外」が、映画であった。寮に帰りたくなかった。映画館にずっといたかった。
 「ロードショー」や「スクリーン」も、寮監や教師らの所持品検査によってエロ本と同様に認知され、処分された。いまでは知る人も少ないだろうシンシア・ギブのポスターも破かれた。
 考えてみれば、ああいう暴力を働くから、私はこの日本という国が信用できないし、怒りがおさまらないのだ。検閲というやつか。
 「ミシシッピ・バーニング」は田舎の人種差別主義者=K・K・kを描いている。むろん、日本の人種差別主義とは様態を違える。だが殺人鬼あるいは悪魔という点では同じである。
 私の大事な映画雑誌を処分した連中は、太平洋戦争時に、「非国民」のラベリングを施すものと、同種である。私はそのように感覚するし、ゆえそのように想像する。
  たしか折口信夫東京大空襲かなにかの際に横浜へ向かうか、あるいは横浜から東京へ向かうときに、自警団に囲まれ、尋問を受けた時のことをどこかで書いていたのを読んだことがある。その自警団の連中の眼についてなんらかの描写があったはずだ。思い出せないが、十分、想像がつく。
私はほぼ確実に、太平洋戦争時には、当時「非国民」としてラベリングされただろう。私の国籍は日本であるが、「非国民」が「非日本人」であるというのなら、私は「日本人」ではない。

靖国問題についても議論かまびすしい。反日運動に対して、私のなかである微妙な感情的な反応が起こったこともあった。だが、こと国家神道に関しては、伊勢神宮の建築美術的な美しさと、政治的な文脈とは分離しなくてはならない。これは私のなかでの感情のゲオポリティック問題である。これと、ある種の伝統美学がいかに政治的に機能し、またあるフレーム(国民?日本人?)を補完していることもむろん問題として、ある。いずれにせよ、美と政治との問題はいかにもむずかしい。
 
 明治以降、国家宗教として神道が持ち出された。先日、たまたま廃仏毀釈運動について再認識したこともある。ここはいつかきちんと調べなくてはならない。江戸時代の国家宗教であった儒教のこと。そして、日本における国家宗教の歴史のこと。
  とまれ、私が体験した、ある思考=イデオロギー形式に生き、「検閲」を好む連中と、国家神道が政治史的にリンクしていることは明らかである。むろん、ここももっと調べないといけない。
  また、ボロボロと問題が転がって来た。
私は私の家を燃やされた。それゆえ、私はその燃やした連中を燃やすだろう。
憎悪、怨念、復讐などの悪感情の悪循環スパイラルを断ち切るとか、解決することは、とりあえずは、不可能である。
 悪魔と悪霊との戦争である。つまり妖怪大戦争であるw