「反ニーチェ」
本を売ったお金がすこしにしかならなかったが、数十冊が消えたことでせいせいする快感のせいで、2冊その場で買う。
最近面白いと思うマーティン・ジェイの「力の場」とリュック・フェリー/アラン・ルノーの「反ニーチェ」。
私はニーチェ主義の洗礼を受けているので、この「反ニーチェ」は、敵による本なのだが、最近、ニーチェをあらためて捉え直したいと思っていたところなので、こういう買い方も時にはいいだろうと思って買った。
この本はもともとの企画からして、論争的な本なので、なんというか、文が生き生きとしている。
ポパー研究者らしいボワイエ「位階と真理」、アンドレ・コント=スポンヴィル「野獣、詭弁家、唯美主義者」、デコンブ「フランスにおけるニーチェの気運」まで読んで休み。
ようは、この論集は、二次世界対戦以後のフランスにおけるニーチェ主義への批判の試みである。
なかで論じられているように、ニーチェを批判することは厄介だろうとは思う。ナチを用意したとか、差別主義者だとか、そういう発言をたしかにニーチェをしているものだから、そういう発言を根拠にしてニーチェを論難しても、それはすでにニーチェが読まれる以前の先入観に戻るしかなくなる。ニーチェが「読まれた」というのは、むろんハイデガーやバタイユ、クロソウスキーにはじまり、ブランショ、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、リオタール、ド・マン、ラクー=ラバルトの系譜における読みのことである。
この「反ニーチェ」で行われている諸々の論点は、ニーチェとドゥルーズやフーコーを嫌いなひとにとっては、きっと喜ばしい内容なのだろう。でも、たぶん、いまの時代、そうニーチェ嫌いはいないような気がする。つまり、嫌う前に、読まれていないから、関心が持たれていないと思われる。
さて、それはともかく前半を読んだ限りでは、ニーチェ寄りの私でも、十分楽しめるものではあった。
弁証法というやつだろうか。ニーチェを有り難がって読むより、こういう批判や論難とともに、ポレミックに読んでいく方が、気合いもはいるし、ずいぶん楽しい。
でもやっぱりニーチェは評価は別にして、ある極限までいったのだなと、批判者たちの論点を聞いてて、そう思う。
矛盾しまくり、真理がないという言表の真理性はどうなるのかというパラドクスなど、論理学的ニヒリズムとかいわれている。
と同時に、ピュロン、モンテーニュ、ヒューム、パスカル、スピノザなどと比較対照されながら料理されている。
ただ、ニーチェはドグマティカーであり、モンテーニュやヒュームなどの経験の限界を前提としたうえでの経験論とは同列にはできない、など。しかし、ニーチェがドグマティカーだといってもあまり批判になっていないような気がする。たしかにほとんどドグマティカーなのだが、しかしあの膨大な溢れる思考の断片は、ドグマというか、やはり明らかにある経験のなかでのものである。
まあ、ニーチェの擁護をはじめる前に、反論をよく聞いて、耳を鍛えないといけないのだが。