「阿児奈波」と「琉球」

 邪馬台国論ではむろん地名の特定が重要で、ついおもしろくなり、1955年より改訂を重ねている「日本史年表・地図」吉川弘文館をようやく買うと、これもまあ一々地名などが興奮させてくれる。
 松浦が「末羅」であったり、8ー9世紀の地図では「阿児奈波」が「オキナワ」で、「信楽」は「シガキ」で地図的な配置でいうといまの「石垣」であり、それから、なんといまの台湾が「琉球」となっている(p11)。琉球史はやっていないとはいえ、台湾が琉球であったなど、聞いた事がないが、調べないといけない。まあ、古代はなんにしてもいい加減なので、ミステリー的には大変ソソラレルとしても、実証主義的には徒労に終わったり、たしかに「歴史のロマン」という感じである。

 そんな古地図に興奮するなか、地名と姓名との関係がどういうものなのか、よくは分からないし、実際には、様々であろうけれども、古今東西、姓名の多くが地名から取られていたりもするだろう。もとより地名がまた姓名から取られることもある。高麗川の「高麗/こま」にせよ「狛江」の「コマ」など高句麗出身の渡来人に由来することなど、また「秦野」の「秦」はむろん「秦氏」に由来するものだろう。
 ということで、「脇川」姓の由来について調べてみた。トラックの道中で拝聴したMJさんの裏日本史講座の影響もある。
 幸か不幸か、姓名としては「脇川」は非常に少ない。日本国の地名には七つあった。点在している。