死の航空

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050906-00000014-nna-int
インドネシアで航空機墜落。テレビがいまだないもので、ひとづてに聞いた。すげー、行きたくなくなってきた。
飛行機墜落では、死にたくない。火山爆発とかの天災系だったら、諦めもつくものだが、こうしたテクノロジーの不備による事故、ほんと、嫌である。でもそれも仕方ないのか。
 飛行機は、たしかに早いし、便利である。でもやっぱり、いつも、死を覚悟して、乗らなくてはならないのが、嫌なんだ。
 でも、乗るのなら、もう、死を覚悟しなくてはならんのだ。
故安永先生の奥さんが、飛行機には絶対に乗らないとの話を思い出す。ああいうデカイ機械が、空を飛ぶなんてことが、考えられないし、ゆえ、信用できないとのこと。ああ、たしかに、そうです。

 飛行機墜落で死んだひとには、オーティス・レディングがいる。バディ・ホリーは違ったかな。
 ロラン・バルトは、交通事故。

うーむ。病気で苦しみながら死ぬこと。事故で死ぬこと。うーむ、やはり死を自己決定することはできないわけだ。自殺を除いて。そうかそうか、世界の醜さに耐えられない審美主義者はそれゆえ、生存の美学のヴァリエーションとして、自殺を美学とするのか。かくいう私も、10代のころはそうだった。というか、潜在的には、いまでも、自殺を肯定している。
 藤原新也メメントモリ」の「人間は犬に食われるほど自由だ」を主題とした小論文で、死んではじめてひとは自由になれるのかもしれない、とか書いてA+をもらったこともあったなあw
 
 そうか、そうか、こないだの地震のときの随想もそうだった。死の美学なんか。だから、いやなんだ。
収容所で死ぬことと、墜落する飛行機のなかで死ぬこと。死の列車、死の飛行機。
 テクノロジーの暴走という点において、相関する。

まあなんにしても、いつだって、賭けだ。だから、もう、これが最後の残された時間と考えた方がいいのだろう。
笑いたくもなる。この死ってやつは。

 もう何十年前か、日航機ジャンボ墜落は。父の友人のsさんもなくなった。たしか中学のときだ。あのとき知った情報でいまでも、参照するものがある。それはあるひとが書いたメモだ。そのひとは他の多くの乗客とともになくなった。だが、奇跡的に、メモ帳の一部が残されていた。そこには走り書きで、たしか、「みんなもう大変なことになっている。…XXX、いままでありがとう。」とかいった、家族への言葉が書き記されていた。そのメモの写真を、雑誌で見たのだった。そのメモのイマージュはいまでも、飛行機に乗るときには、かならず思い起こす。実際、墜落する飛行機のなかでできることといえば、祈ること、瞑想すること、書くこと、騒ぐこと、泣くこと、くらいである。つまりは、絶望の感情をどうするか。というか、いかに、死に臨むか。