哲学と詩の争い:ホメロスとプラトン

それはいいとして、しかしなぜプラトンは詩人追放論=ミメーシス批判を行ったのだろうか。これについては、岩波文庫版「国家」に収められた訳者藤沢令夫氏による補注でプラトン研究史をふまえた詳細な解説が便利である。(「いわゆる「詩人追放論」について」『国家』下巻pp416-429.)
 そこでも触れられているように、プラトンのこの本は、当時のギリシア社会における教育批判として構想された。つまり、当時の教育において支配的だったものは、ホメロスに代表される詩であった。ここでいう詩とは、叙事詩・抒情詩・悲劇などのことをいう。
 当時の教育では、それらの詩の暗誦が課せられており、また悲劇の上演などによって、ひとびとはモラルなどを「学習」していた。

散文で書かれた書物による知識の伝達ということが完全に確立されず、いわゆる口誦による伝承(oral tradition)が大きな比重を占めていた長い間、ホメロスその他の詩は、そうした倫理的な問題のみならず、祭事・政治・軍事から日常生活上の諸技術に至る実際上の事柄についてまで、人々がそれに規範を仰ぐ一種の百科全書(tribal encyclopaedia)の役割を果たしてきた。(藤沢前掲補注)

このホメロスという百科全書という点に関しては、マーシャル・マクルーハンに甚大な影響を与えたエリック・A・ハヴロックの「プラトン序説」(1963)ISBN:4403120016
 
 それで、「国家」を丹念に読もうかとしたが、やはりとても面白く、これだと、ミメーシスだけでなく、正義、国家、欲望と快楽、その他膨大な問題系にぶち当たることになり、ミメーシスに限定して考えていこうということができなくなる。まあ、それはそれでよいのだが。
 
 ハヴロックについては、年末にヒュー・ケナーに感銘をうけて、正月はマクルーハン系列の本を漁っていた流れで、ミメーシス問題に関係なくメディア論として読もうとしていた。そんなマクルハネスクな気分も、ビラ撒き事件で中断したのだった。しかしその事件から法の問題へと移ることで、詰まりもとれた。